二章2話
特使が来てからの一〇日間、イーリスは戦争の為の準備に湧いていた。予備役の兵は招集され、それぞれミスリルで作られた装備を整え、訓練に励む。ほとんどの予備役の兵は月に一度の訓練を欠かさず行われ、それによって少しの集中的な訓練で、ほとんど正規の兵と変わらない程になる。しかし、それでも一〇日は短すぎ、準備が間に合う事はなさそうだ。しかし、それでも正規兵の数は一般的な国と考えればかなり多く、イーリスの人口が約三千万人、そのうち正規兵の数は五パーセントおおよそ百五十万人。これは常備軍としてはかなりの数で、一般的な国では、おおよそ三パーセントほどが常備軍となるのが一般的だが、その倍近くの数字をイーリスは保有している。しかし、それ程の数が無ければ、永世中立国として自国を守る事は難しい世の中なのだ。しかし、それでもイーリスの兵力は満足なほど多いわけではない。今回グライラットとの戦闘は百五十万の内の半分ほど、約七十万人を想定している。自国を守る為にこれ以上の兵力を割く訳にもいかず、更に今までの戦争と違い、他国、グライラットの領地へも攻め入る準備をしているため、兵糧や武器弾薬等の資器材の運搬も問題になってくる。
これまでは自国領を守る為だけの戦いであったため、兵站をそれ程重視する事も無かった。イーリスは永世中立国を国是として初めて他国に踏み入る事になる為、その兵站を重視しなくてはならなくなったのだ。しかし、今まで自国領内の補給と違い、他国に入り、そこを進んで行く為どうしても補給線は長くなる。補給線を守るためにはどうしても兵力を割かなくてはならない。ある程度の備蓄は有るとはいえ、これはイーリスにとってはかなり厳しい状況になる。もともと永世中立国であったため、他国への侵攻を想定した備蓄はなされていなかったのだ。
しかし、兵站が続かなければ兵は戦えない。だからと言って現地で徴発するわけにもいかない。もしそれを行ってしまえば、二度と民衆の支持は得られないだろうからだ。逆に飢えていればこちらの物資を渡してでも飢えさせない様にしなければならない。
そうなってしまうともう戦いどころではなくなってしまう。補給線が途切れ、疲弊しきった所を敵に襲われてしまえば、いくら装備が良くても勝てる訳は無いのだ。
「……今述べました理由から、戦争を回避するべきだと私は考えます」
財務を担当するシャインが淡々と説明した。それ程の余裕はイーリスにはないのだ。そうシャインは言いたかったのだろう。
ルーベールにしても同じ気持ちで有ったし、彼は彼でグライラットとの間に何とか妥協案を見出す為に外交を続けていた。しかし、グライラット側からの要求は変わる事は無く、もう戦端が開かれるのは秒読み段階に入ったと言っていいだろう。
「ルーベール、グライラットとの交渉はどうなのですか?」
リーゼロッテがルーベールに確認する。
「はぁ、今の所進展は有りません。しかし、もう後三日、いえ二日あれば何とか妥協案を見出して見せます。どうかもう少しお時間を」
額の汗を拭きながら答えるルーベール。
「ルーベール卿、こちらとしては待ちたいが、あちらはもうそうはいかないようだ」
ザイーツがルーベールにそう話、その流れでリーゼロッテに話し出す。
「陛下、グライラットの軍は国境線に集まっています。守備兵からの情報ではおよそ三万。後詰には恐らくその倍はいるでしょう。こちらの状況を見て戦力の配備を行うと思われます」
ザイーツの言葉にリーゼロッテは頷く。
「それで、国境の守りは大丈夫なのですか?」
「はい、現状国境には一万の兵を配置しています。我がイーリスの古強者ばかりです、そう簡単には抜かれる事は無いでしょう」
ザイーツの言葉にリーゼロッテは少し不安になる。
「しかし、少し少なすぎませんか? 砦を落とすには三倍の兵力がいると聞きます。今回の場合もその定石通りグライラット側は三万の兵を集めたのでしょう。いくら古参の兵が集まっていても守りきるのは難しいのではないのですか?」
リーゼロッテの言葉にザイーツは少し驚く。まさかリーゼロッテから戦略や戦術に関するような言葉を聞けるとは思ってもいなかったからだ。しかし、ザイーツは隣に立つカインを見てニヤリと笑い、なるほどと言う顔をする。
「はい、陛下のおっしゃる通りです。確かに砦や城を攻めるのは三倍の兵力を必要とすると言われています。ですからこの場合はほぼ対等と言っていいでしょう。しかし、私は国境を守るつもりなどは端からありません」
そのザイーツの言葉に一同驚く。そして、一番に声を出すリーゼロッテ。
「それはどういう事ですかザイーツ。国境を明け渡すと?」
「はい。国境と言っても王都からずいぶん離れていますし、基本的には周りには村も何もありません。ですからグライラットを自国領内に侵入させ、その間に補給線を絶ち、相手を疲弊させ、疲労の極みに達した時に反撃を開始します。もちろん、国境を簡単に明け渡すつもりはありませんが、頃合いを見て領内に下がるつもりです」
ザイーツの作戦にリーゼロッテは更に質問を繰り返す。
「しかし、仮にそれで追い返したとしても、国境にある砦をまた奪い返さなくてはならないのでは? それとも砦自体を破壊して後退するのですか? それでは後の守りも難しくなりますし、こちらの兵力が砦に張り付かなければならない。そうなってしまえば国境はこちら側に入り込んでしまいます。それでは向こうの思うつぼではありませんか?」
リーゼロッテの言葉にザイーツは笑って答える。
「ははは、そうですな。しかし、国境という物が意味をなさなくしてしまえばいいのですよ。それにいざとなればいくらでも砦を落とす方法はあります。どうかご安心ください、一カ月ですべてを終わらせますよ」
自信満々に答えるザイーツ。
「一カ月……ですか。その短期間でこの戦争を終わらせると、そう言われるのですね?」
リーゼロッテの言葉にザイーツはニヤリと笑いながら答える。
「はい。十分な期間です。被害も最小限に抑えれます。そして、時間の速さは、周辺国へも影響します」
「というのは、どういう事ですか?」
「はい、我々が攻める事で周辺国はどちら側につくかを考えるでしょう。これが長い間膠着状態が続いてしまえば、周辺国はどちらに付く方が利点が大きいかを考える時間が有るでしょう。しかし、これが短期で終了してしまえば、我々の側に付くしかなくなります。そして、この戦いで、イーリスの軍事力が圧倒的で有る所を見せつけてしまえば、今後の……そう、陛下の今後の戦略も有利に動く事でしょう。もちろん手の内を全部見せてしまう訳にはいきませんがね」
「解りました。この件はザイーツに一任します。ただし、イーリス、グライラットにかかわらず民に対して暴行を行う事は一切禁じます。もしそれが守れなかったものは極刑に処します。これは勅命です。イーリスの兵は規律正しくあらねばなりません。それは一兵卒に至るまでです。それと、村や街などへの被害は極力最小限に抑えて下さい。そのように基本行動を考えて頂く様にお願いします」
そうリーゼロッテは言うと、最後にもう一つ言葉を付け加える。
「ああ、最後にもう一つ。此度の戦いでは、私も同行します」
最後の一言にその場にいる全員が絶句する。
「陛下、今なんと?」
ルーベールが驚きを隠せないような声でリーゼロッテに聞き返す。
「私も戦場に立ちます。もちろん、前線で戦う事はしません。ですが必ず私は同行します。そのように」
リーゼロッテは力強くそう言うと、他の者はもう何も言う事は出来なかった。
「では、本日はここまでにします。それぞれの準備を行ってください。グライラットの宣戦布告は明日にでも行われるでしょう。いえ、もしかすると奇襲もあり得るかもしれません準備に怠りの無いようにお願いします」
リーゼロッテはそう締めくくると、会議は終了し、リーゼロッテは部屋を出る。それを見送った後、他の者達はそれぞれの仕事に戻って行く。
「陛下」
夜中に突然声を掛けられるリーゼロッテ。辺りはまだ暗く、眼を開けるがまだ視点が定まらない様子で目の前に立つ人物を見る。
「クリスティン……どうかしましたか?」
「たった今、ザイーツ様から火急の使者が参りました。急いで陛下に御取次ぎをとの事ですが……どうされますか?」
その言葉を聞いたリーゼロッテは直ぐに動き出す。
「解りました。すぐに向かいます。ミュゼとフィンはいますか?」
リーゼロッテの言葉に二人は直ぐに返事をする。
「はい、ここに」
「着替えを手伝ってください。急ぎます」
二人はそう言われるとすぐに用意を行い、急いで着替えを終わらせ、謁見の間へ急ぐ。そこには一人の兵士が立っており、リーゼロッテを見るとすぐに膝まづく。
「ザイーツはなんと?」
リーゼロッテは王座に座るとすぐにザイーツからの使者に話しかける。
「ハッ! 国境で戦闘が始まったと早馬が参りました。ザイーツ閣下は現在待機中の兵団総てに対し臨戦態勢を命じ、当初の予定通りの行動で迎え撃つ準備を行っています」
「解りました。国境の方の戦況はでどうなっていますか?」
「ハッ! 詳しい情報は入っておりませんが、我が方に対しグライラットはおおよそ四倍の四万ほどと連絡が入っています。現状はグライラットを押し返しているようです」
「解りました。ご苦労様下がりなさい」
リーゼロッテの言葉に兵士は急ぎ足で謁見の間を退室する。
「クリスティン。急いで全員を招集して下さい。半刻後に軍議を始めます」
「かしこまりました」
クリスティンはそう言うと一礼し、謁見の間を後にする。クリスティンにそう告げた後リーゼロッテも一度自室に戻る。
ついに始まってしまった。もはや後悔する事は無い。しかし、本当にこれで良かったのか? リーゼロッテはその事を少し思い悩んでいるようだった。しかし、運命の歯車は動き出してしまった。もうそれは誰にも止める事は出来ないだろう。少し曇った表情を振り払うように、両手で頬を叩き、気持ちを奮い立たせる。暫くしてリーゼロッテの部屋をノックする音が聞こえる。
「陛下、皆様がお揃いになりました」
半刻も経っていないというのにもう皆がそろったようだ。ザイーツが早いのは解るが、ルーベールやその他の者までもが揃うのは早いように思えた。そこを少し考えたが、今ここでそれを悩んでも仕方ないと思い直し、リーゼロッテ部屋を出る。そして、皆が集まる部屋に足早に向かうリーゼロッテ。部屋の前の衛兵が扉を開ける。扉が開くとすぐに全員が立ち上がり、文官は頭を下げ、武官は敬礼してリーゼロッテを迎える。カインはいつものようにリーゼロッテの席の後ろに立つ。皆の姿を横目に見ながら、リーゼロッテは自分の席に座る。それを合図に全員が席に座る。
「朝早くの招集申し訳ありません。しかし、グライラットとの戦闘が始まってしまったようです」
リーゼロッテのその言葉にも誰も騒ぐことは無かった。まるでそれを予想していたかのようだ。しかし、ルーベールだけは少し頭を垂れているようにも見える。
「ザイーツ。詳細の報告をお願いします」
リーゼロッテにそう言われたザイーツは立ち上がりリーゼロッテに少し頭を下げると話始める。
「今陛下からのお言葉にあったように、昨夜遅くにグライラットが我が砦に攻勢を開始した。夜襲なるも、グライラットの第一波は御仕返し、今は膠着状態との事。これに対し我が軍は当初の予定通り、頃合いを見計らって砦からの退却を始めている」
その言葉に全員が少しの驚きの表情を見せる。
「敵を前にしてそうやすやすと後退が出来るとは思えない。かなりの損害が出ているのではないのか?」
文官の一人がザイーツに疑問を投げかける。
「当初の作戦計画に則っての後退で、被害は皆無だ。大規模な抜け穴を用意してあるのでそこより大隊単位で後退を始めている。恐らく敵は我が軍が後退した後もそれを知らずに砦を攻め続ける事になるだろう」
その言葉にリーゼロッテが訪ねる。
「しかし、そんな大規模な抜け穴、砦が落ちた後に直ぐに見つかってしまうのではないですか? そうなってしまえば、直ぐに追いついてこられるのではないでしょうか?」
リーゼロッテの疑問にザイーツは答える。
「はい、本来の抜け穴ならばすぐに見つかってしまうでしょう。しかし、魔法を使った抜け穴で、出入り口は完全に隠蔽されます。一見しただけではそれは何ら変わる事も無い壁にしか見えないでしょう。それに、その抜け穴はある特定の魔法使いにしか開ける事が出来ません。もし見つかったとしても、抜け穴の入り口を開ける事はほぼ不可能でしょう」
リーゼロッテはピエールが知っていた抜け穴の事を想いだす。あれと同じようなものが砦に作られていたという事か。リーゼロッテは一人納得するが、他の者はそんな事が出来るとは思ってもいなかったようで、口々にその事への疑問を投げかけるが、それを無視し、ザイーツは話続ける。
「砦は敵に大きな損害を与え、敵が攻めあぐねている間に一気に部隊を後退させます。そして、誰もいなくなった砦を前にグライラットはしばらくの間無駄な時間を浪費するでしょう。その間に我が軍は、敵の補給線を叩くために準備を行い、そしてグライラットの後方を脅かし続け、疲労の極みに達したところで敵軍の倍の兵力、おおよそ十万の兵力で迎え撃ち、包囲殲滅します」
ザイーツの計画を聞いて皆納得するが、リーゼロッテはザイーツに話しかけた。
「計画は解りました。しかし、そう上手くいくでしょうか? こちらの都合に合わせてくれればいいですが、グライラットにも都合があるでしょう。 もしうまくいかなければ……どうしますか?」
リーゼロッテの言葉にザイーツは最近驚かされる事ばかりだ。少し前のリーゼロッテならこんな軍事的な事は言葉に出る事は無かっただろう。それだけリーゼロッテの気持ちが本気である証拠だろう。ザイーツは心の中だけその思いを留め、顔には出さずに、リーゼロッテの言葉に返す。
「ハハハ、そうですな。あちらにも、あちらの予定がありますからな。まあ、計画なんてものは五割も上手くいけばいい方です。もちろん、計画通り行くように準備は怠っておりませんが、計画に狂いは付き物です。その時は少しずつ計画を変更して行けばいいだけです。まあ、お任せください、予定通り一カ月で終わらせます。ご安心下さい陛下」
「解りました。すべてお任せいたします。しかし、守るだけでは勝つことはできません。私はグライラットが降伏するまで戦うつもりです。こちらからは攻めて行かないのですか? 守り続けるだけではグライラットに勝つことはできません。解っていますね?」
リーゼロッテの積極的な攻勢の指示に、ザイーツは口元を少し緩めて答える。
「もちろん、そちらの準備にも怠りは有りません。密使からの情報ではグライラット本国の兵力はもうほぼ残っておりません。城の守備をする兵がわずかばかり残っているだけにすぎません。恐らくセルジオとの二正面作戦でかなり疲弊しているでしょう。そんな状態でイーリスに攻めてくるのですから、我々も舐められた物ですな。まあ、それはいいでしょう。今、我が軍は徐々にグライラットの中に浸透して行っております。こちらの防衛戦が終わるのが早いか、グライラットの城が落ちるのか早いか、まあそれ程時間の差は無いでしょうな」
黙って頷くリーゼロッテ。その表情にはもう迷いの色は見られなかった。そう、もう覚悟を決めたのだろう。そして今、この時から、リーゼロッテの長い戦いが始まろうとしている。
「では、戦いに参りましょう。計画通りお願いします。それと、前にも言いましたが私も戦場に立ちます。ザイーツ、よろしくお願いしますね。では、会議は終了します」
そう言ってリーゼロッテは立ち上がると、部屋を出る。それを見送った後その他の者も部屋を後にする。
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