Chemical Reaction -化学反応-

palomino4th

Chemical Reaction -化学反応-

 ユイは鏡の前で険しい顔の自分自身と向かい合っていた。

 感情が渦巻いて、泣き出しそうな顔と怒り狂った顔が飛び出しそうになり、もしも身を任せれば周囲のものを粉々にしかねなかった。

 例えば目前の鏡を拳で打ち抜くことさえやりかねない。

 血に染まった手を見てその時考えるだろう、殴った相手は鏡なのか、自分自身の顔なのか。


 ユイはマサユキの容貌を好んでいた。

 そうなるのがごく自然なように二人は交際し、共に暮らすようになり、籍も入れた。

 それぞれの仕事を落ちながら一緒の生活をして数年過ぎていた。

 確かに、ユイはマサユキの容貌を好んでいたのだ。

 しかしその中に恋愛という要素はあったのだろうか。

 それらしきイベントを二人でなぞりここまで来たけれど、自分の中では「登場人物」が上辺うわべの出来事を演じているだけで、心からの恋愛というものを通過していなかった、と思う他なかった。

 もちろん、世の中にはそういう感情を抜きに相手と一緒になるようなケースがあってもまるで不思議ではない。

 はじめはなかった相手に対する視線が時間と共に生まれる可能性だってあるのだから、そういう過去を気にするまでもない。

 それならば今現在の爆発しそうな激情は何処から来ているのか。


 マサユキが密かに他の女性とつき合っていることに気付いてもう一年になる。

 具体的な証拠はないが間違いはないだろう。

 態度が冷たくなったのではない、逆だった。

 やけに優しくなったことの方が疑いのきっかけだった……後ろめたさからなのか。


 友人とそれとなく世間話しながら、自分の状況は明かさずに世の中の夫婦や恋愛のトラブルの話を聞き出し、自分の戦略に利用できるものがないかを吟味ぎんみした。

 例えばある段階で専門家にゆだね素行調査や法的なアドバイスを受け、マサユキの「不貞」に対する精算をするという報復を考えないでもなかった。

 不貞はいつ頃始まったものかは分からない、マサユキの方は当然ユイに露見しないよう気を付けているだろう。

 証拠を抑えるために、ユイは気づいていない振りをして泳がせることにしておいた。

 もっと油断をして隙ができれば、後々のちのち証拠を集める時に有利だろうと考えていたからだ。


 しかしそれはユイにとってストレスの大きいことになった。

 目の前でマサユキがユイに機嫌の良い笑顔を向ける時、そこに秘めた情事に気がつかない相手に対する嘲笑のかげりを感じずにはいられなかったのだ。


 ユイが鏡の中の自分自身に向かって凄惨な表情になるのは、その顔を今はマサユキに向けられないこともあった。

 裏切りにはとっくに気付いているというのに、当の相手はまるで自分を何も気付いていない頭の鈍い女であるかのように扱っていること。

 それに我慢をしているのは想像以上の苦しみだった。

 いずれ大きな報いを受けさせてやるつもりだが、果たしてそれはこの忍耐に引き合うほどの悦びがあるだろうか。


 ユイは会社の昼休憩、外に出て通り沿いに駐車したキッチンカーでテイクアウトのランチを確保して、そのまま公園へ向かった。

 普段ならば同僚である後輩と二人連れで近場での外食などに行っているのだが、後輩の方は今日は社用で外廻り、ユイ一人の昼食なので少し趣向を変えてみた。

 天気の良い公園では昼時の人々が多く出ていた。

 ユイと同様に、付近のオフィスに働いている人々が屋外で弁当を使っている姿も見られた。

 自作弁当・コンビニ弁当、テイクアウトのサンドイッチやバーガー類。

 テーブルやベンチに腰掛けて開いてそれぞれに食事の最中だ。

 座る場所を探して歩くうちに、ユイは信じられないものを見た。

 木製のベンチに一人腰掛けて、茶色い紙袋からバゲットサンドを出しながら食事している一人の男がいた。

「マサユキ」ユイは呟いた。

 ネクタイもせず色付きのワイシャツ、白いチノパンというファッションはもとより、ヘアスタイルも違っている。

 出社した時と違う見慣れないカジュアルな服装で、こんなところで何をしているのだ、——情事のための二重生活のために切り替えているとでもいうのか?

 いや、まさか私の職場の近くで?

 そのまま立ち尽くしていると男はユイの方を向いたので目が合った。

 ユイは感情を抑えながら彼の前まで歩き自然な仕草で話しかけた。

「ここでどうしたの、会社にいる時間だし、オフの格好じゃない」

 男は口に食べ物を頬張ったままユイを見上げて意外そうな顔をしていた。

「はい?」口の中のものを飲み込んでから、男はようやく口をきいた。「何か、ぼく、しましたか」

 ユイはその反応に違和感を感じた。

「マサユキ?」

「その、どちら様でしょう……ぼくはヒデユキといいますが」

 何をふざけて……と言いかけ、ユイは改めて相手を見た。

 姿はそのままマサユキそのものなのだ、しかし格好も違うし仕草も喋り方もどこか違う。

「人違いでした」ユイは切り替えて素直に謝罪した。「すみません、本当に、知り合いにあまりにそっくりでつい失礼な口を」

「そうでしたか、いえ、気になさらず」ペットボトルの緑茶を飲み、あっさりとした笑顔で男は応じた。

 ユイはそれでもどこか納得できないように男の顔を見ていたが、男は彼女に声をかけた。

「よろしかったら隣にどうぞ、ぼくの方はもう終わりますし」男は少し横にずれて場所を開けた。

 ユイは周囲を見回した。

 探せばどこかに空いた場所はあるかもしれないが、場所を探しているうちに折角のテイクアウトを使う前に昼休憩が終わってしまう。

「それじゃあ、失礼します」ユイは取り出したハンカチを敷いてからベンチに腰掛けた。

 ちらちらと顔を見ているユイに苦笑しながら男は言った。

「あの、そんなにそっくりですか」

「ごめんなさい、じろじろ見て」彼女は謝りながらも言った。「本当にそっくりで。まるで双子の兄弟ぐらいに」

「ははは、ツチノコみたいに珍しいでしょうか。生まれてからずっと一人っ子です」朗らかに笑いながら男は言った。

 ユイは既婚であることは話さなかった。

 向こうに他意は無さそうだが、話す気にはなれなかった。


 午後の仕事を終えて退勤時、駅までの道のりを変え、少し回り道をしてランチに使った公園を歩いた。

 ヒデユキはもちろんいなかった。

 不思議なことに家では見るのも嫌になりつつあるマサユキの顔なのに、ヒデユキの顔には嫌悪感がなかった。

 彼の裏切りを許せなかったことからの憎しみはあり、彼を嫌いになったはずなのに、ヒデユキの笑顔がとても好ましく思えたというのはなぜだろう、と彼女は考えながら園内を通過した。


 翌日、同僚の後輩とのランチを断わった。

 しばらく弁当に切り替え、外食を休止するのだ、と説明して単独で公園に向かった。

 ヒデユキは昨日と同じ決まった場所、ベンチで一人食事していた。

「すみません、また隣、よろしいですか」

「ああ、どうも」にっこり笑ってヒデユキは場所を開けた。

「お弁当派になろうと思いまして」ユイは笑ってベンチに座った。

 食事しながら雑談に興じた。

「そういえば人間って世の中にはそっくりな人が3人いるようですよ」ヒデユキが思い出したように言った。「ボク、貴女のお知り合い、そしてもう一人揃えばちょうど3人なんですけどね」

「そうね、もしかしたら」とユイは言いかけてちょっと詰まった。

 瓜二つの分身「ドッペルゲンガー」について話しかけたのだ。

「もしかしたら?」ヒデユキが言葉を待った。

「……どこかで3人目とばたり会うかもしれませんね」

 ユイは誤魔化した。

「ドッペルゲンガー」の話題は、軽く話題にするには彼女にとっては切実過ぎた。


 これは不貞になるのだろうか?とユイは考えていた。

 マサユキの中には今、別の女性が既に住んでいる。

 ユイを想う感情は無いわけでもないのだろうが、ユイにとってはそんな彼を受け入れることができない。

 しかしヒデユキに対する自分の感情は何なのか、ユイにとって微妙なものになっていた。

 マサユキの裏切りさえなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 ヒデユキのような、邪気のない屈託ない笑顔をなぜできないのか。

 どうして今の夫であるマサユキに、ヒデユキの中身が入っていないのか。

 卑劣な裏切り者のマサユキの代わりに、ヒデユキの方が夫に相応しいというのに。


 公園でのランチが定着して二週間ほど後、ユイにとって思わぬ事態が発生した。

 ヒデユキと並び雑談しながら食事をしていた時に、離れたところを歩いていた人物と目が合った。

 ……それまでは共に外食をしていた後輩だった。

 一瞬、血の気が引いた。

 後輩は目を逸らしてすぐに歩き去ったが、ユイのことを確認したはずだった。

 後輩はユイが既婚なのを知っている。

「……どうしました」ヒデユキの方はそんな状況を知るわけもなく、いつも通りあっけらかんとそんなことを言った。

「いえ」ユイは表情を硬らせながら答えた。「明日からちょっとお弁当作りが難しくなってしまって。しばらくこちらに顔を出せなくなるかもしれなくて。もしかしたら今日で最後になるかもしれないんです。どうもこれまでお世話になりました」

「いえ、お世話なんて」少し寂しげな笑顔でヒデユキは応じた。「楽しかったです、またそのうちに」


 オフイスに戻って午後の仕事をしながら、後輩に話しかけた。

 後輩の方はいつも通り、同僚として受け答えしていたが、ユイの方は内心、「誤解を解きたい」という意識が働き、説明のタイミングを探していた。

 後輩は何かを言うわけでもなく、職場の同僚として接するのみで、しかし軽い私語もなく、距離をとるような余所余所よそよそしさをユイは感じた。


 退勤の電車に乗りいつもの駅に降りてから帰宅し、夜の食事を作っているとユイのスマホにマサユキからのメッセージが届いた。


 ——残業で帰りが遅くなる 先に寝ていていいから


「了解」と返信した後、唐突に怒りがこみ上げてきた。

 マサユキの方は浮気の相手との密会だろう。

 汚い裏切りなのだ。

 私の方は夫と瓜二つの人間と昼食を並んでしていただけのことだった。

 やましいところはどこにも無いのだ。

 それを見た後輩の、「誤解」そのものが腹立たしかった。

 自分をそこいらの節操のない女性と一緒にされたことが我慢ならなかった。

 後輩にも腹が立つ、しかし最も悪いのはマサユキだ。

「消えてしまえばいいのに」

 夕食の鍋を見ながら、ごく自然に口から言葉が出てきた。

 かき混ぜる玉柄杓レードルを止めて、ユイはじっと一点を見つめた。


 ある日、マサユキが体調を崩し、病院の診療を受けるため平日に休みをとることになった。

「一緒に行く」ユイは自動車を出して病院まで連れて行った。

「休みをとらせてすまない……調子がもう少し良ければ自分で運転するんだけどね」マサユキは言ったが、ユイの方は何も答えずにいた。

 受診は昼前に終わった。

 待たされるうちに体調が幾分か戻り、マサユキは睡眠と栄養を摂るよう医師にアドバイスされた。

「午前で終わればどこかで食事しましょう」病院を出たユイはマサユキに言った。

 条件の揃った出来事は行動を促している。

 偶然は私にとって必然なのだ。

「このまま家に戻っても」

折角せっかくだから外で食事しましょうよ……私の職場の近くにね、美味しいお店があるの」

 ユイは頭の中で地図を広げた。

 目星をつけておいた有料駐車場に車を置いて、歩く。

 そうして目的のレストランまでの途上、近道で公園を通過する。

 昼休憩の時刻、ヒデユキはいつものベンチに座っているだろう。

 マサユキと二人、その前を通るのだ。

 ユイは無表情で運転しながら考えていた。


 二人が公園で対面して、そうして、何が起こるかしら?


   ***


「ドッペルゲンガー」をめぐる迷信の中には、「自分の分身と出会った人間は死ぬ」というものもある。

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