死について思うこと

西しまこ

死にたくないってどういう気持ちなんだろう?

 実際、わたしは小学校の頃から、死について考えていた。自殺の方法を調べたり(ネットがなかったのでたいしたことは分からなかったけれど)、自分が死んだあとのことを考えたりしていた。

 その中で、安楽死というものを知った。

 ものすごく憧れていた。

 小学生だったので、「末期症状でどうしようもない状態」でないと安楽死の要件に当てはまらないといということも知らず、「死ぬほど苦しいのなら安楽死がいい」くらいの気持ちで、憧れていた。


 わたしが縄跳びで首吊りをしようと思ったのは、小学校五年生のとき。だから、小学生が自死するニュースを見ても驚かない。わたしはきっと、何か(霊的なもの)に護られているから、死ななかったし、すごく辛いところからもきちんと生き延びているのだと信じている。そんなわけで、幸運の星の下に生まれたのだと、勝手に思っている。


 わたしを生の側に引き戻したものは、思い返しても、家族の愛情なるものではない。愛されなかったわけではない。充分ではなかっただけ。たぶん、そんなこと言ったら「贅沢な」と言われてしまうような状況だ。大学も行かせてもらえたし、「こんなもの」なんだと思う。

 だけど、心からの充足がなかったから、わたしはいつだって不安だった。わたしはいい子でいないと、そこにいられなかった。しかし、成績はオール5に近くても、褒められることはなく、「どうしてこの教科は4なの?」と言われていたし、自分でも5が当たり前だと、本当にそう思っていた。そんな状況だったので、「オール5に近いこと」はむしろ当たり前で、「手伝いをしない」「片付けをしない」とそういうことを怒られていて、いつも「お前はダメな子だ」と思われていた。


 ちなみに「どうしてこの教科は4なの?」は、悪意がある発言ではない。そこに押し付けとか圧力はない。もし、「5をとりなさい!」という圧力があれば、反発も出来た。だけど、そうではなく「5が当たり前よね」と自然に言われてしまうので、自分でもその通りだと思っていたのだ。実際、体育以外は本当に5がとれてしまい、体育だけは「仕方がないわよね」と許されていたので、なんていうか、「5が当たり前」がするりと入ってきやすかったのだ。


 子育てをして、自分の子や自分以外の子と接する中で「5をとること」はかなり難しいことだと、初めて知った。自分の子どもの頃は何だったんだろう? と、ときどき思う。体育以外はオール5でも、それでもわたしには劣等感があった。


 親に褒められた記憶があまりない。

 無条件の愛というものを知らない。

 いつだって、条件つきの愛情だった。


 ときどき、ネガティブモードに入るときがある。それは、こころの核みたいなものがうまく育たないまま大人になったのだから、仕方がない。いいのだ。ネガティブになることがあっても。そのこころの核みたいなものは、小さい頃、親や周りの大人たちによってつくられるものであって、欠損していると、どうにも埋めようがない。代替は可能だ。若い頃、あんなに恋愛ばかりしていたのは、この欠損ゆえであると思うこともある。恋愛のあの熱で、損なわれている部分を代替することは出来る。


 わたしの親は悪人ではない。そして、たぶん、一般的な親だと思う。いやむしろ「ちゃんとした」親かもしれない。

 だけど、『ノルウェイの森』の緑にいつだって、共感してしまう。

 わたしが望むようには愛されなかっただけ。

 贅沢な悩み。


 大学生になったとき、死にたいことがあると友だちに言ったら「頭がおかしい。信じられない」と言われたのが、衝撃だった。わたしは「みんな、死にたいと思っているけれど、それでも頑張って生きているんだ」と思っていたのだ。「ふつうの人は死にたいなんて思わないよ」と言われ、こころから驚いた。

 そうか。

 ふつうは死にたくないのだ。

 ずっと、死にたいけれど、なんとか生きてきたわたしには、まるで新しい価値観であり、「死にたくない」ということが、あまりよく理解出来なかった。実のところ、今もって「死にたくない」という気持ちが理解出来ているとは言えない。

 それはどういう心情なんだろう?


 わたしが今なお生きているのは、さまざまな繋がりの中で生きているからだ。

 わたしはやっぱり一人ではなく(否応なしに)、わたしがもし自死したら、周りの人間を巻き込んで、暗いところへ引き摺り込むだろう。それは全くもって、わたしの望むところではない。特に、息子たちは、何よりも大切な存在なので(自分よりも)、そんな黒い種をこころに撒きたくないのだ。決して。


 そんなわけで、結局のところ、わたしは人によって生かされているとも言える。

 相変わらず安楽死に憧れて、「安楽死貯金をしないと!」と口走るし、「死にたくない」気持ちはやっぱり分からない。それでも、自死はしない。


 大金持ちでもないし美人でもない。

 仕事は最近は入ってくるけれど、その分時間が全然ない。

 息子たちは、手がかかり、他の子が全て天使に見えるほど、いろいろやらかしてくれる。夫には、現在はかつてのような愛情は抱けない。


 でも、仕方がない。

 仕方がないという言葉を、マイナスに受け留めるのではなく、ただその状態であると受け入れる意味で使いたい。


 死には憧れる。

 転生したいわけではない、むろん。

 ただ、終わりにしたいだけ。無になりたいだけ。もういろいろ考えたり行動したりしたくないだけ。

 そういう、圧倒的な死に憧れる。


 死に際したとき、もしかして「死にたくない」と思えるのだろうか?

 それはそのときになってみないと分からない。

 ただでも、わたしは充分頑張って生きてきたので、自分で自分を褒めてあげたいと思う。そのときも。


(もちろん、今でもわたしはわたしを褒めているけれど)





        おわり


 

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