無
夜、湖の夢を見た。初めてクロに会ったときと同じだ。
真っ暗な水の底から誰かがわたしを呼ぶ声がする。聞き覚えのある声だ。優しくて、温かく、いつもわたしを呼んでくれたあの声が。
鋭い音に、わたしは飛び起きた。
ベッドから身を起こし、窓の方を見る。べったりと土色の水がついて、ガラスを曇らせていた。湖の底のようだ。水滴が滴り落ち、どろりとした影が赤い滲む。
わたしは悲鳴をあげて後退った。
壁に頭を打ちつけ、鈍い痛みが走る。窓に手形が浮き上がった。両手で窓をこじ開け、入ってこようとしている。
恐ろしいはずなのに、同時に何故か懐かしかった。炎のような赤い髪、同じ色の眩しい瞳。
「アカ……?」
両目から涙が溢れた。何故、今まで忘れていたのだろう。わたしは咄嗟に窓を開ける。
寒風が吹き込み、カーテンやカレンダーを捲り上げる。アカの姿はなく、泥水が窓枠に溜まっていた。
わたしはパジャマのままで森の湖へと走っていた。サンダルを貫通した枝や小石が脚を引っ掻く痛みも気にならなかった。わたしは何度も涙を拭って走る。
「ごめんね、アカ。気づかなくてごめん。ずっと守ってくれてたのに、忘れててごめん」
優しい声はもう答えてくれない。自分だけで戦わなければ。
湖に辿り着くと、クロが岩に腰掛けてわたしを見下ろしていた。金属のような冷たい視線に膝が震えそうになる。
わたしは自分を奮い立たせてクロを睨んだ。
「どうして、アカを消したの」
「思い出したか」
「質問に答えて!」
クロは表情を変えずに平然と言った。
「あいつは俺が止めるのを聞かずに、手を出してはいけない奴に手を出した。だからだよ」
「だからって、アカはクロの友だちだったでしょう? そんなに簡単に消していいの?」
「あいつはそろそろ邪魔だったからね」
わたしは怒りで顔がカッと赤くなるのを感じた。
「わたしがアカのことを好きだったから?」
クロは初めて眉間に皺を寄せ、不思議そうな顔をした。
「わたしとアカがいつも一緒にいるから気に入らなかったの? だって、クロは話も聞いてくれないし、辛いとき一緒にいてくれなかったじゃない! わたしが欲しいならもっとアカみたいに優しくしてくれればよかったのに」
わたしは拳を握りしめ、クロに歩み寄った。泣きたいのを必死で堪える。いつまでも泣き虫だったら、アカが心配してしまうから。
わたしは恐怖を押し殺してクロを睨み上げる。アカ、力を貸して。
「アカが消えても、わたしはクロのものにはならない。たとえ殺されたって、わたしは最後までアカと一緒にいる」
クロは深淵のような黒い瞳に私を映して黙り込んだ。肩が小さく震えている。怒らせただろうか。それとも、わたしが拒絶したことを悲しんでいるんだろうか。
初めて会ったときのクロが優しく受け止めてくれたことを思い出して、気持ちが揺らぎそうになる。
クロは掠れた声を漏らし、自分の口元を押さえた。指の間から金属を擦り合わせるような音が漏れる。クロは細い身体を折った。
「クロ……?」
近づこうとして、怖気が走った。クロは笑っていた。耳障りな声を上げ、身体を震わせて笑っていた。クロの笑顔を見たのは初めてだった。
クロは立ち尽くすわたしを見て、ようやく笑うのをやめた。
「俺がお前を自分のものにしたいからアカを消したって?」
クロはまだ喉を鳴らし、漆黒の髪を掻き上げた。
「まったく、お前は困った奴だね。確かに頑張って従僕を集めてくれたけど、それもこれまでか。また新しい端末を探さなきゃいけない」
言葉の意味が取れず狼狽えるわたしに、クロが手を伸ばした。
「アカと一緒にいたいんだって?」
わたしは何とか顎を引いて頷く。
「これまでの働きへの餞別だ。そうさせてあげよう。それから、おまけだ」
クロの額にひびが入り、中から黒く光沢のあるものが溢れ出す。蛞蝓のような粘性の軟体が蠢いていた。
こんなのは神様じゃない、化け物だ。
「だいたい、神が人間の言いなりになる訳がないだろう。人間が神の命令を聞くものだ」
衣がクロの身体に張り付き、裾の白い三角錐が棘に変わる。クロの口は楕円の空洞になっていた。
逃げようとしても足が動かない。
クロが伸ばした手が三本の黒い触手に変わり、先端に着いた目が、わたしの蒼白な顔を写している。
「俺の名前を知りたがっていたね」
クロの口から長い肉の針が伸び、鋭いひっ先が首筋に触れた。
ぐ、ら、あ、き。
そう聞こえた瞬間、皮膚を貫通して、棘がわたしの首に突き刺さった。
辺りが暗い。
夜闇よりももっと霞んで薄汚れた霧が満ちている。
胃液のようなにおいと、何日も放置した生肉を炙るようなにおいがした。
それが、自分の皮膚が溶け出している匂いだと気づいた。
身体を包むぬるぬるした膜が、ガラス窓の雨垂れのように滴っていく。
霧が目を刺して開けていられない。涙と共に白濁したものが流れ落ちる。溶けた眼球かもしれない。
痛みも感じない。足先から太い縄が千切れるような音がして、わたしはその場に崩れ落ちた。
見上げる空は錆びた金属のような色だった。ときどき波紋のような光が蠢く。わたしは湖の底にいるんだと思った。
周囲にはどろどろに溶けた人型が犇めいていた。
使い古した石鹸のようで、元の姿はほとんどわからないけれど、全員誰だかわかった。
わたしをいつも叱った上司の緑川さん。小学生のときに私に告白した葛原くん。みんなにわたしを無視しようと言った城野さん。
先輩の間違いをわたしのせいにした手芸部の顧問の先生。通学路で付き纏ってきたストーカー。何度も電車でわたしのスカートに手を伸ばした男。無理にお酒を飲ませようとする大学の先輩。
みんなわたしを苦しめるひとたちだった。みんなアカが消してくれたひとたちだった。
人影の向こうに、何十年も雨晒しにされた犬小屋のようなものがあった。崩れた木板の間から注連縄が覗いている。祠だ。
押し潰された祠の残骸の下で、何かが蠢いていた。
でろでろに溶けて、辛うじて形を保っているような粘性の半液体に、ふたつ赤いものが浮かんでいる。
優しくて、温かくて、いつもわたしを見つめてくれた、アカの目だ。
アカ、と呼んだけれど、喉から漏れたのはうがいのような音だけだった。
わたしは這いずって重い身体を湖の底に擦り付けながらアカに近づく。
わたしも、アカも、何でこんな目に遭わなければいけないのだろう。何のためにクロはこんなことをするのだろう。
わたしの指先がアカの身体に触れる寸前、首筋に刺さった棘がより深く潜り込んだ。
これが本当の神様だ。
本物の神様は人間の願いなんて聞いてくれない。人間に言うことを聞かせるために、わたしを使ってたくさんの生贄を呼び寄せたんだ。
最後に、湖の水が跳ねる音が聞こえた。
わたしの嘘つきな神様 木古おうみ @kipplemaker
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