鶏は大鷲の夢を見る

五色ひいらぎ

大鷲に焦がれた者たち

 キャベツの芯、人参の皮、鶏肉の切れ端――店の余り物を、塩胡椒とオリーブ油で軽く炒めただけの簡素な夜食。それでも爺ちゃんは、皺に埋もれそうな目を細めて、ゆっくりと味わってくれた。


「腕を上げたな、ルカ。味付けも、火の通し具合も」

「いいや、まだまだだよ爺ちゃん。街には、俺より腕のいい料理人がたくさんいる」


 話しつつ、次のひとくちをフォークに刺して、爺ちゃんの口に運ぶ。爺ちゃんは話を止め、ほんのり焼き色がついたブロッコリーの芯を、何度も頷きながら噛みしめた。

 爺ちゃんには右腕がない。俺が生まれた頃には、既にそうだった。昔「北方戦役」に従軍した時、なくしたのだと聞いている。だったら爺ちゃんは、もう五十年くらいを片腕で生きてきたことになる。最近は残った左手も衰えて、食事も時折こぼしてしまうようになった。だからこうして、俺が食べさせている。


「他の料理人がどうあれ、ルカ、おまえはもう一人前だ。私が保証する。店も最近は繁盛しているのだろう?」

「十人並じゃ意味がないんだよ。街で一番にならなきゃ。押しも押されもせぬ、デリツィオーゾ城下第一の料理人にならなきゃ」


 ほんの少し苛立ちながら、俺は答えた。

 爺ちゃんは、いつも俺を褒めてくれる。初めて包丁でものを切った時も、揚げ油を扱えるようになった時も、城下町に初めて自分の店を構えた時も。はじめのうち店の経営は苦しくて、借金をして食いつないでいた時期もあったけれど、そんな時でさえ爺ちゃんは、少しずつ上達する料理の腕を褒めてくれた。

 だけど、いつからだろう。そんな爺ちゃんの物言いに、苛つくようになったのは。

 ……思い切って俺は、爺ちゃんにただしてみることにした。


「爺ちゃんって、料理のことよく知ってるよね。それこそ、味付けも火加減も、上達の具合が細かく分かるくらいには。だったら――」


 口調の変化を感じ取ったのか、爺ちゃんが軽く首を傾げる。


「――どうして褒めてばっかりなんだよ。俺は上手くなりたいんだ。誰よりも凄い料理人になりたいんだ。今の俺のダメなとことか、もっと上手くなる方法とか、教えてくれたっていいじゃないか」


 爺ちゃんは、真っ白な眉をぴくりと動かした。そしてどこか悲しそうに、俺の目を見た。


「凄い料理人、か。ルカ、おまえはどうしてそうなりたい」

「宮廷料理人になりたいんだ。城下第一の料理人になれば、城からお誘いが来るかもしれないだろ。ある日俺の店に、見慣れない身分の高そうなお客が来て――」

「――お忍びの国王に認められれば、みごと王宮に雇われる。とでも考えているのか? ラウル・セリーノのように」


 思わず息が止まった。

 言おうとしていたことを、完璧に言い当てられてしまった。爺ちゃんは首を大きく横に振った。


「やはりな。おまえは子供の頃、いつも北方戦役の話を聞きたがっていた。中でも、ラウルとレナートの話を特に好んでいた。……料理人を目指したのも、伝説の料理人へのあこがれからだと思っていた」


 まったくそのとおりで、返す言葉がない。

 かつてこの街――デリツィオーゾ城と城下町は、一度滅んだことがあった。約五十年前、北方の悪名高い暴君が国境を侵犯し、おそろしい速さで城を落としてしまった。城も城下町も占領され、大勢の避難民が周辺国へ逃れ、政情は激しく混乱した。

 だがそんな中、北方の暴君が突如命を落とす。機に乗じて避難民たちは、各地で義勇軍を結成し、長い戦いの末にデリツィオーゾを奪還した。これが世に言う「北方戦役」だ。

 そして北方戦役において、敵の王を討ったのは剣でも弓でもなく、一皿の料理だった。「伝説の料理人」ラウル・セリーノの手による究極の美食……それこそが、戦いの趨勢を決定的に変えたのだ。


「ああ。確かにあこがれてるよ。俺はラウルみたいになりたい。いや、ラウルになりたい」


 ラウルの伝説を聞くたび、俺は全身の血が滾るのを感じる。

 誰もが認める最高の料理人。デリツィオーゾの城と街が続く限り、永久に語り継がれるであろう名声。それらにも無論あこがれる。けれど、もっと焦がれるものがある。


「誰にもたどり着けない高みに、立ってみたいんだ。誰かの背中を追っかけるんじゃなくて。登り詰めて、誰より高い頂に立って、誰の背中も見えなくなった時……俺の目の前には何があるのか、見てみたいんだ」


 興奮しつつ語り終えたとき、爺ちゃんはとても悲しそうだった。うつむいて、まだほとんどが残っている炒め物の皿に視線を向けた。そうして、また俺を見た。

 何が言いたいんだろう。俺の言ったことを解ってくれたのか、それさえもわからない。

 もしかすると「これしきの腕で何を言っている」と、言いたいのかもしれない。料理に詳しい爺ちゃんのことだ、表向きは褒め言葉ばかり口にしていても、本当は俺の「程度」など、すっかり見抜いているのかもしれなかった。

 どうにも居心地が悪くて、さっきまでの興奮もどこかへ行ってしまった。間が持たず、せめて何か言おうとぐるぐる考えていると、爺ちゃんが先に口を開いた。


「……私はラウルを見たことがある。彼が、まだ街で店を持っていた頃のことだがね」


 えっ、と、思わず声が出た。

 爺ちゃんからそんな話を聞いたことは、これまでいちどもなかったから。


「彼は楽しげだったよ。街一番と評判の店を持ち、絶品の料理を客に振る舞い、少なからぬ金貨を稼ぎ、それで満足していた。従業員にもおいしい賄い飯を振る舞い、良い店長と愛されてもいた」


 宮廷料理人になる前のラウル。伝説には語られていない内容だ。思わず身を乗り出すと、爺ちゃんは深い溜息をついた。


「だから私にはわからないのだ。評判の店を、金払いの良い客たちを、あたたかい店員たちを捨てて、ラウルは本当に幸せだったのか。……美味しい料理を振る舞い、皆に喜ばれる、その穏やかな日々を捨ててまで、目指した『高み』には何があったのか」


 爺ちゃんは緩慢な動きで、左手を目のあたりに遣った。瞳が心なしか、いつもより潤んでいるように見える。


「当時、私も料理人だった……腕を失うまではね。だから彼にはあこがれていたよ。気風きっぷの良さも、料理の技も……彼のように、皆を幸せにする料理人になりたいと思っていた」


 爺ちゃんは皺だらけの掌で、ゆっくりと自分の目頭を拭った。


「だが彼は、誰の手も届かないところへ行ってしまった。彼の見た景色は、確かに、他の誰にも見えない眺めだったのだろう……けれど」


 爺ちゃんの乾いた指先が、目頭を何度も撫でる。


「淋しかったよ。私はね」


 声に、少しばかり震えが混じってきた。


「どうして、留まっていてくれなかったのか。私たちと共に在ってくれなかったのか。考えるたび、どうしていいかわからなくなる。そして――」

「だから爺ちゃんは、ラウルの話をしてくれなかったんだね? 俺があの人にあこがれてるの、知っていたのに」


 俺が口を挟むと、爺ちゃんの手の動きは一瞬止まった。そして、ひと呼吸の後、ゆっくり何度も頷いた。


「ルカ。おまえは……ラウルには、なってくれるな」


 爺ちゃんの声は、もうはっきりと涙声になっていた。


「あたりまえの幸せを、あたりまえの日々を……おまえには楽しんでほしい。ただひたすらに高みを目指し、空の果てで命を落とすような……そんな結末にあこがれるのは、やめなさい」

「言いたいことはわかるよ、爺ちゃん。でもね」


 軽く笑いながら、俺はつとめて明るく言った。


「大丈夫だよ。俺はラウルにはならない。というより、なれない……あんな大天才の真似、俺みたいな凡人が、やろうったってできやしない」


 声をあげて笑いつつ、爺ちゃんの肩を軽くぽんぽん叩く。すると爺ちゃんも、つられて笑ってくれた。


「天駆ける大鷲にあこがれて、空を飛ぼうとがんばって、あがき回って、それでやっと地面を走れる程度。俺たちなんてそんなもんさ……でも最初から飛べないって思ってちゃ、走る力さえつきようがない」


 爺ちゃんが、涙ながらに何度も頷く。もしかすると爺ちゃんも、俺の心持ちがわかるのだろうか。あのラウルと同じ時代に、料理人をやっていたのならば。


「わかってるさ、夢だってことは。でも爺ちゃん、俺はもうしばらく、夢見てたいんだよ」


 爺ちゃんは、ぽろぽろと涙を流す。その背を、俺はゆっくりとさすってやった。

 わかってるさ。きっと一生を使っても、俺は天才の領域にはたどり着けない。けれど天へのあこがれを捨てた時、俺はきっと何者でもなくなってしまう。

 大丈夫、遠くには行かないさ。行けないさ。あがいてあがいて、飛ぼうとして落ちて、きっと俺はここへ帰ってくる。

 だから心配しないで、見守っていてくれ。マウロ爺ちゃん。


【了】

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