〈後編〉


 由紀は、胸の鼓動が速くなるのを感じながらチェーン店のカフェで待っていた。

 待ち合わせの相手は、二十二年前にも同じように待ち合わせをした相手。


 やがて現れた背の高い中年の男は、気まずそうに由紀の前に現れた。


「早く来たんだね。そのワンピース……」


 由紀は、深みのあるモスグリーンのワンピースを着ていた。


「それが、その薔薇色でない服……というわけか。まるで謎解きのような言葉だったよ。『薔薇色でない服で待ってます』って」


「ええ。すごく難しかったのよ。薔薇色でない色を探すのは。薔薇色って普通、華やいだピンクや赤を指すでしょ? でも実際には、薔薇の色でない色を探す方が難しいくらいなの。レモン色やオレンジ色の薔薇もあるし、最近は青もあるから」


「そうなんだ……」



「私、貴方の思ってるようなタイプじゃないのに、合わせようとして近付いたの。最低よね。でも薔薇色が似合わないってわけではないと最近知ったの。こんなに薔薇の色が多いんだから。責めて嘘つきにはならなかったというわけ。言い訳がましいよね」




 夫は、いきなり着ていたジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、紙を一枚破ると、テーブルにかがみ込んでペンを走らせた。それを折りたたみ、由紀に渡すと「これを読んでほしい。家で待っている」とだけ言い残し、テーブルを去っていった。


 由紀は、店を離れる夫の後ろ姿をあきれるように目で追い、今度は紙を見つめた。こんな時も直接話さずにメモを残すんだと思いつつ、その丸めた背中が意外と小さく見えた。そして決心したようにそれを広げ、読み始めた。



 ――僕が好きなのは薔薇色というのは勘違いなんだ。


 昔、美術の先生が画集を見せてくれた時、その中のムンクが描いたヴァーネミュンデの港町の薔薇色の道に惹かれて。いつかこんな道を好きな人と歩きたいと思った。それだけだ――



 そこまで読んだ由紀は心の中で呟いた。

「そうだったの。ヴァーネミュンデ。それが本当に貴方の行きたかった所だったのね、名所ばかり巡っていたと思っていたのに」

 そしてかつて画集で見た長閑な町の絵を思い出し、続きを読み始めた。



 ――子どもの頃からいつも視界に入ってくる変わった女子の事を意識し、好きになった。でも一緒になってみると、独身時代そうだったように幸せそうには見えなくなった。何とか笑顔にしたくて色々な一流のものを考えてみたのに分からなくて済まない。

 別にどんな色を着ていても構わなかった。薔薇色でも薔薇色でなくても。

 今度はもう傷付けないと誓う

 ――



 由紀の心の中に、この間のバーで話した様々な旅行先の候補が浮かんだ。

 路地裏の小さな雑貨店や照明の専門店、ライブハウスや日曜日の古びた教会のチャリティー演奏会、街角の映画館。ついこの間まで魅惑的だった旅行の計画が急に孤独な旅にしか感じられなくなった。

 そしてヴァーネミュンデが急に気になりだした。その薔薇色に見える道が。

 持っていたエスプレッソのカップが滲んで見える。


 まずはこの間のバーテンダーにラインのメッセージを入れようと思い、スマートフォンを取り出した。

 ラインのメッセージに入れた「ごめんなさい 一緒の旅行には行けなくなりました」という一文。それが悩みを打ち明けた美しいバーテンダーに小さなため息をもたらす結果になると、予感してもいなかった。



〈Fin〉

       


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薔薇色でない服 秋色 @autumn-hue

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