薔薇色でない服

秋色

〈前編〉

 そのチェーン店のカフェは、水曜日にも関わらず、席が埋まっていた。二月なのにすでに春らしいメニューの並ぶメニュー表を楽しそうに選ぶ客達で入り口は塞がっている。

 由紀は一人でテーブル席を占領している気まずさを感じながら、待ち合わせの相手が来るのを待っていた。胸の鼓動が速くなるのを感じながら。

 二十二年前にも同じように待ち合わせをした事がある。相手は今の夫。現在は離婚まで秒読みの。二十二年前に感じた胸の鼓動が懐かしかった。今日の胸の鼓動はその時と違う、かすかな胸の苦しさを伴っている。

 かつての待ち合わせ場所はチェーン店のカフェでなく、ステンドグラスみたいな窓のある喫茶店だった。そんな事を懐かしく思い出す。駅前にあったその店も、今はもうとっくにコンビニに変わってしまった。



 今日こうして待ち合わせるようになったいきさつは、五日前に遡る。

 由紀は一人、街の路地にある、小さなバーで時間を潰していた。まだ新しく、インテリアもない殺風景なバーだった。酔い潰れるだけの勇気もなく、ただ時間だけをひたすら割いていた。

 バーテンダーが心配顔で声をかけた。「お客様、ご気分が悪いのではありませんか?」


 その声に、相手が男性でなく、女性だという事に気が付いた。低く抑えた喋り方だが、それは明らかに女性の声だ。

 この店に入った時、目に入ったそのバーテンダーは、まるで十代後半の美少年のような容姿だった。でもよくよく見ると、ベリーショートにした美しい女性。年齢も十代ではなく、二十代かあるいは三十代前半かもしれない。でもこれは由紀の見間違いというわけでもなかった。

 バーテンダーのユニフォームも意識的にマニッシュな着こなしをしているし、身のこなしの一つ一つにもあえて女性らしさを拭い去った感じがある。

「もうそろそろお勘定にしますか?」というバーテンダーの言葉に、由紀は首を振った。

「もう少しだけここにいさせてもらえませんか? 私、お酒で気分が悪くなっているわけではないんです」


 その口調に、バーテンダーも由紀が酔って気分が悪くなっているのではない事に気が付いた。

「それならオモテだけ閉めさせて下さい。もう他のお客さんもいなくなったので。私でよければ話を聞きますよ」


「ホントに? 聞いてくれますか?」



 *



 由紀は自分の話をする前にバーテンダーに聞いた。

「ね、私ってどんな風に見えますか?」


「どんな風とは?」


「例えば警察の聞き込みがあって、現場にいた私の事を説明するとすれば」


「そうですね。ミドルエイジの主婦に見えたと言います」


「他に?」


「同じ年代の中では美しいかただと。着ているものにも品の良さを感じると言います」


「もっとしつっこい刑事の聞き込み調査だったら?」


「着ているコートやセーターは安物でない、ちゃんとした物をお召しですが、年季が入っているようで、倹約されていらっしゃるのでしょう、と。見た目ばかりを気にする若さから卒業された感じがします、と」


「へぇ」と言って由紀はくすりと笑った。「ずいぶん詩的に表現するのね。オブラートに包まなくていいのよ。身なりを気にしなくなってるオバサンだって」


「そんな事は……。正直、お店に入って来られた時、チャーミングな方だと思いました。瞳が黒水晶のように真っ黒で。ただ何だか沈んだ顔をされているとも感じました」


「そう。貴方の見解は概ね正解よ。私は主婦だし。あのね、唐突で馬鹿みたいな話に聞こえるかもしれないけど、私、初恋の相手と結婚したの。初恋が実ったなんて話、あまり聞かないでしょ?」由紀は相手に左手の甲を向け、薬指の指輪をきらりとさせた。


「それはあまり聞かないですね」


「人にそれを話すと、幸せ者だってうらやましがられるの。でもね、ホントは全然違ってて……。気持ちが晴れた日なんて一日もないくらい。でも、みんなそんなものなのかなって。そうやって生きてるのかなって」


「雲一つない快晴の日なんて、逆に珍しいものですよ」



「ホント、詩的な表現をするのね。だけどね、常に幸せな誰かを演じているような気分なのよ。まるで、違うキャラを演じる女優みたいな気分」


「幸せな誰か? では、リアルな自分を観客に見せるというのはどうですか? そんな芝居の演出もあるでしょう?」


「そう……ね。もう遅すぎたのかもしれない。私ね、夫の事が子どもの頃から大好きだったの。小二で初めて地域の夏季キャンプで、遠くから見て以来」


「そんなに昔から?」


「ええ。それで九月になって、私達の小学校に転校してきて、違うクラスだったんだけど、跳びはねるくらいうれしかったの。でも小学校って色々な行事があるでしょ? クラスが違うと全く接点がなくて、彼が他の子達と楽しそうに学習発表会やクラスマッチの練習をしているのを遠くから悔しい思いで見ていたの」


「そうなんですね。何だかかわいらしいですね」


「そうかしら。友達からはストーカーっぽいって言われたけど。

 中学に入ってからも同じクラスにはならず、また遠くから見ているだけ。声をかけて友達になればいいのにって思うかもしれないけど、住む世界が違う気がして、それも出来なかったの」


「同じ学校なのに住む世界が違うんですか?」 


「世界線が違うってあるでしょ? だって相手は静かな優等生って感じで、中学生の頃から境界線があったのよ。

 それでも私は諦めたくなくて、彼が志望しているという高校への受験を決めたの。彼は特進、私は普通科だったけど、そこに私の学力で合格するためには、文字通り死に物狂いで勉強しなくちゃいけなかったの。本当に人生であんなに必死で勉強した事なんてなかったわ。親に頼み込んで家庭教師の先生までつけてもらったりして。で、やっと合格して大喜びだった。これでかろうじて接点が出来たんだから」 


「それで接点が出来て、初恋が実ったんですね」バーテンダーは長い話を端折ろうとするかのように言う。


「いえ、それだけじゃ無理だったの。高校に入ってみると、そこでは普通科なんて、下の下という感じで、他の科の生徒達からは見下されていたのよ。こっちはこんなに苦労して入学したのにね。だからもうダイレクトにいくしかないと覚悟を決めたのよ」


「告白したんですか?」


「結局はそうね。絵画展にまずは誘ったの。私達の高校は、芸術の科に関しては、生徒が書道、音楽、美術の三つから選ぶ事になっていて、これらは普通科も進学科も特進科も合同だったのよ。で、もちろん私は彼の選択する科をリサーチ済みで、同じ美術科を選んだの。そして、耳寄りな情報を入手したのよ」


「え? 耳寄りな情報って?」


「美術科では、絵を描く以外に古今東西の名画を図書室の大きな本で鑑賞する事もあったの。それで彼の好きな色が分かったの。

 ある絵を見てて、彼が自分の好きな色はこんな薔薇色なんだって。そしてこういう色の似合う子が好き、とも小さく言ったのよ」


「薔薇色が好き……ですか。どんな絵だったんでしょうね」


「それが道がピンク色の長閑な外国の港町を描いた絵だったんだけどね。他の作品で有名な画家の絵。ほらムンクの『叫び』のムンクよ」


「『叫び』じゃないムンクの絵?……叫ばないのもあるんですね」


「そうなのよ。とにかく私はそれで薔薇色が似合うようになろうと決めたの。それまではレモン色やオレンジ色のビタミンカラーが好きだったんだけど」


「ピンク色が……という事ですか? ある色が似合うかどうかは、その人の生まれながらに持っているキャラにかかっているので急には変えられませんよね。その時置かれている状況や気分も反映していますけど」


「そうね。それに気が付いたのは残念な事にずいぶん後になってからだった。その時は自分って変えられると信じていたから。高校生だったけど、薄くメークをして、顔立ちを柔らかくしたし、季節にかかわらず日焼け止めクリームをたっぷり塗って、もうこれからは絶対日焼けするまいと決めたの。だって色白でないと、薔薇色って似合わないでしょ?

 それで絵画展に誘ったの。『招待券を二枚もらったので、今度の日曜日に付き合ってもらえませんか?』ってね。本当は新聞社に勤める叔父にねだって譲ってもらったペアの招待券だったんだけど」


「その作戦は成功したんですね。初恋が実ったのだから」


「そうね。私は親におねだりして買ってもらった薄いピンク色のフレアスカートを着て上にはふわっとした白のセーターを着て行ったのよ。自分で言うのもなんだけど、すごく似合っていた。彼も、今日の服、似合うねって言ってくれた」


「それ以来、ずっと付き合って、そして結婚したのですか?」


「そう。それもね、意外と早くに婚約したのよ。高校を卒業してすぐに。相手の彼はまだ大学生だったんだけどね。相手の祖母にあたる方が病床にあるから少しでも元気なうちにとに急いだのよ。

 それで私の運命も変わったの。県外の専門学校に行く予定が、結婚を前提になぜか彼の大学と同系列の短期大学に行く事になったり、行きたくもない短期の留学に向こうの親の勧めで行ったり。

 そこから何かが少しずつ違う流れになっていったの。式や披露宴は良かったんだけど。こんな自分が好きな人の隣でプリンセスみたいになれるなんて思ってなかったから。

 でもやっぱり人間、ムリしちゃいけないのね。

 私は所詮、賢くないし、どこかでボロが出ちゃうものなのね。私だって自分を百八十度変えて、薔薇色のお洋服が似合うような女性でいつもいようって心に決めてはいたのよ」


「自分を百八十度変えるのなんて無理じゃないですか」


「そうね。言う通りよ。そして結婚前は魅力だと思っていた無口で愛想のないところも、冷たく胸に突き刺さるようになったの。相変わらず私に関心なく、イメチェンしてみても気付きもしない。

 確かにそれは私にも原因があったのかもね。夫の転職で収入が減ってだんだんしゃかりきになって、見た目も気にしなくなっちゃったの。一人息子を育てて、良い学校に入れるためパートも始めたりして。でも家柄があるからあまり迂闊なイメージの場所で働いちゃいけないでしょ? だから近くのオーガニックダイニングで下拵えの仕事をしたり」


「オーガニックだとイメージがいいんですかね?」


「オーガニックじゃないよりイメージが良いんじゃない? そこで働いていても私って不器用だから他の人の足を引っ張ったりして。でもとにかく誰よりも頑張って働いたのよ。分かってくれる? 中学の時の受験勉強以来の頑張りだったのよ。だからなりふり構わなくなってたのね」


「それは立派だと思いますよ」


「でもひどいの。彼は、私のイメージが変わった、なんて言うの。私だっていつもいつも薔薇色の服が似合うようではいられないのに。いいえ、そもそも最初から似合わなかったのよ。ここにいるのはイメージじゃなくてわたし自身なのに」


「それで何て言い返したんですか?」


「だったらもう別れましょうって」


「え? そんなに努力したのに?」


「努力したからこそ、よ。自分の限界を知ったの」


「まるで引退するスポーツ選手のコメントみたいですね」


「そう考えるとカッコいいのにね。でもスポーツ選手は元々そこに実績があるんじゃないかしら。私は元々居る場所でない場所に居た気がするの。だからこれでちょうどいいのかなって。息子も大学に合格したし。それで今は私は家を出て実家にいるんだけど、今度夫と話し合いをする事になって……」


「離婚の話し合いですか?」


「そうなるわね。考えてみると、彼とは久し振りの待ち合わせなのよ。何だか同じ季節って事もあって、初めて待ち合わせた時の事を思い出してしまって。今から緊張してしまうの。変かしら」


「あの、お客様はあまり悪くないですよね。でもなぜそんなにスッキリした顔をされているのですか?」


「それはね、ほら、さっき言ったみたいに元々居る場所でない場所に居る居心地の悪さ、というのがあったからよ。旅行に行った時なんかに特に感じたの。

 昔、夫の以前の会社の景気が良かった頃、海外の仕事も多くて、年に一度は仕事へ行く彼に連れ添い、一緒に海外で何日か過ごす事もあって。でも夫が選ぶ場所でないところにすごく心が惹かれる事があったの。

『あ、こっちの方に行きたいな』と違う道が気になるの。それは何と言うか、ちゃんとした観光地になっていない、旅行ガイドにも載っていないような所なんだけど。

 夫は海外ではめぼしいクラシック演奏会を探して行ってたし、有名なミュージカル作品も逃さなかった。

 五つ星のレストランもチェックしていた。

 でもそうじゃなくて、私は路地裏の小さな雑貨店がすごく気になったりしてたの」


「分かる気、します」


「私にはクラシック音楽は退屈で、昔の洋楽とか、ギターのカッコいい演奏が好きだったからライブハウスに行きたかったり。アジアの有名ホテルのレストランの五ツ星ディナーより、地元の人が普段着で立ち寄るレストランの方が落ち着くだろうって感じてた。立派なホールのドレスコードのあるクラシック演奏会に行くより、古びた教会の礼拝堂前でやっているチャリティー演奏会に足が止まったりもした。

 有名なミュージカル作品もいいかもしれないけど、アジアの時代劇の輪廻転生のような恋話の映画の方を観たかった。でも夫は、ひらひらと衣装のたなびくようなポスターを見ても興味無さげで何も言わないの」


「分かります。今仰ったの、全部、私も好きですから」


「そうなの? だったらバーテンダーさんもずいぶん変わってるのね、きっと」


「はい。あと、海の近くの美術館とか、路地裏の紫陽花とか」


「それはみんな好きかも」


「外国にある、路地裏の照明の専門店は? あと、メニューが林檎タルトだけの店とか、ギターの弾き語りを聴かせてくれる家庭料理の店」


「いいわね。 私、頑張って働いて、いつかそういう場所を一つずつ回って行きたいの」


「だったら、良かったらその時は一緒に旅しません? 私も旅が好きなんです」


「いいわね。楽しそう。でもね、私やっぱり胸が痛むの。ずっと夫は大切な存在だったのにって。せっかくなら美しく別れたかったなって」


「それなら良い方法がありますよ」


「え? どんな?」


「それは……」



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