落ちる

石野 章(坂月タユタ)

落ちる

 突然ですが、あなたは幽霊って信じますか? きっと、信じる人と信じない人は、半々くらいなんじゃないかと思います。一口に幽霊って言っても、昔ながらの「うらめしや〜」ていう白衣の女性もいれば、「リング」の貞子みたいにこちらを呪い殺すものまでいるので、どの幽霊を指すかで答えが変わるかも知れません。


 私の場合は、少しだけ信じている、というのが正直なところです。曖昧な回答でごめんなさい。でも、そういう風に思うようになったのには理由があります。あれは、私が中学生の頃に起きた出来事でした。


 確か夏休みが明けて、九月の半ばになった頃。よく晴れた、暑い日だったと思います。普段どおりに学校で授業を受けていた私は、先生の話も頭に入らず、ぼんやりと外の景色を眺めていました。


 その時です。"何か"が、教室の窓のすぐ前を勢いよく落下していきました。それはすぐに地面に激突したようで、ぐしゃりという、何か水分を含んだ袋が潰れるような音も聞こえてきました。


 教室は騒然となりました。その瞬間を見たのは私だけはなかったようで、教室のあちこちで悲鳴や叫び声があがり、先生が「こら、静かにしろ」と叱りつけました。でも、誰も口をつぐみません。先ほどは"何か"と言いましたが、それを目撃した人は、皆その正体が何であるかわかっていたからです。


 それは、人でした。

 うちの学校の制服を着た、女の子。こちら側を向いて、でも上下は逆さまで、頭から地面に向かって落下する姿。そんなものを見て、冷静でいられるはずがありません。一人の男子生徒が窓際に駆け寄り、下を向いて叫びました。「飛び降り自殺だ!!」


 「そんなこと、あるわけないだろう」先生も呆れたように窓から下を見て――血相を変えて呟きました。「Aさん…!」


 そう、飛び降りたのは私たちのクラスメイトの、Aさんだったのです。先生が目を白黒させながら飛び出していき、すぐに沢山の大人がAさんの遺体を取り囲みました。慣れない手つきでその現場にブルーシートを被せ、校内放送で全学年を自習とすること、窓の外を決して見ないことが指示されます。


 しかし、そんな言いつけを守る人などいません。クラスメイトはみんな窓際に集まって、Aさんの飛び降り現場をおもしろおかしく眺めていました。私も、先生たちがブルーシートをかける前の遺体を、少しだけ見てしまいました。顔は確かにAさんだったのですが、その体はぐちゃぐちゃになっていて、水風船に針を刺して破裂したかのように、内臓や体液が放射状に飛び散っていました。その時、私は不思議と怖さは感じず、ああ人間て意外と脆いんだなと、妙に冷静に考えてしまったのを覚えています。


 その後の学校は大騒ぎでした。なぜなら、Aさんはほとんど学校に来ない生徒――つまり不登校だったのです。しかも、その理由がクラスであったいじめであると噂されていたので、校長先生と教頭先生がカメラの前で頭を下げて謝罪する映像が、ワイドショーで何度も何度も放送されました。結局、学校の偉い先生たちはみんないなくなり、ほとぼりも冷めてきた十月になってようやく普段の授業が再開されるようになりました。


 私たち生徒は、そんな学校の様子をどこか他人事のように見物していました。いじめといっても主犯格がいるわけでもなく、何となくみんなが無視していたというものだったので、私たちの誰かを責める報道はありませんでした。それに、私もAさんと別に親しい間柄でもなかったので、最初はショックでしたが、そのうち授業がなくてラッキーくらいの感覚でいました。不謹慎ですよね、すみません。でも、当時の私は本当にそう思っていました。若気の至り、ですませる話ではないのはわかっています。


 それで、問題はここからなんです。

 騒動は終わり、普段どおりの日常が戻ったかに思われたある日、授業中に声をあげる生徒がいました。


「い、今、誰かが飛び降りた!」


 この間のこともあったので、先生は慌てて窓の下を確認しましたが、今度は誰もそこにはいませんでした。先生は悪い冗談を言った生徒をこっぴどく叱りましたが、その生徒は「嘘じゃない、本当に見たんだ!」と言って聞きませんでした。


 そして、それは何度も起きました。

 次の日も、そのまた次の日も、誰かが飛び降りる姿を見た生徒が続出し、授業中に叫んだり泣き出したりし始めました。聞くところによれば、どうもその姿はAさんそっくりであるらしく、しかも顔がこちらに向いた状態で落ちているので、一瞬だけ目が合ってしまうとのことでした。


 学校は私たちが結託してふざけているか、あるいは集団ヒステリーではないかと疑いましたが、ついに先生たちからの目撃情報も出始め、いよいよ本格的に対策を検討し始めました。しかし、Aさん本人は既に亡くなっているわけだし、落下している最中の姿しか確認できないので、どうすることもできません。


 結局、屋上が閉鎖され、授業中は外を見ることを禁止することで、一旦様子を見ることになりました。すると今度は、妙に静かになった瞬間を狙ったかのように、あのぐちゃりという音が聞こえるのです。クラスには体調不良になる生徒も出始めて、再び学校は混乱の渦に飲み込まれてしまいました。


 私は、それまでAさんの幻は一度も目にしていませんでした。だからでしょうか、一連の出来事をじっくりと考えて、あれは何であるかを突き止めようとし始めました。こっそりと屋上に侵入した私は、Aさんが飛び降りたであろう場所に立ち、フェンスをよじ登ってみました。もちろん、完全に飛び越えることはせず、顔だけ外側に出して、下を覗いてみたのです。


 その光景を見て、私は戦慄しました。

 Aさんがいたわけではありません。そこにはただ、屋上から眺めた校庭の様子が見えただけでした。しかし、それがものすごく怖かったのです。五階建ての校舎ですから、高さはそれなりにありますし、落ちたら間違いなく助からないというのは、中学生の私でもわかりました。


 それなのに、Aさんはここから飛び降りたのです。この光景を見て、なお死ぬために一歩を踏み出した。恐ろしいことです。何が彼女をそこまで追い詰めたのでしょう。おそらく、このフェンスに立ってから実際に飛び降りるまでに、何度も何度も迷ったのだろうと思います。


 柵の上に立ち、下を見下ろすAさん。ああ、高い、高すぎる。怖い。無理だ。でも死ななきゃ。一歩を踏み出すAさん。頭から真っ逆さまに、地面へ。鈍い衝撃とともに何もわからなくなる。――目を開けると、まだフェンスの上に立っている。ああ、良かった。まだ落ちてなかった。でも、やらなきゃ。足が動かない。でも――。また体が宙を舞うイメージがあり、再びフェンスの上で呆然とするAさん。


 後で聞いた話ですが、学生の自殺って、夏休み明けが一番多いらしいですね。あの事件があったのは九月の半ばだったので、もしかしたらAさんは、夏休みが明けてから毎日屋上にいたのかもしれません。そして、毎日のようにフェンスの上に立ち、恐怖に負けて飛び降りられなかった。でも、ある時、ついに本当に飛び降りてしまった。彼女は亡くなりましたが、もしかしたら屋上で逡巡する彼女の精神は、まだここにあるのかも知れません。場合によっては、自分の死すらまだ認識できていないのかも。だから、私たちは落ちるAさんの幻覚を見続けているのだと思いました。何の根拠もありません。ただ、屋上のフェンスで恐怖に飲まれた私には、そんな風に感じられたのです。


 結局、学校側は根本的な対処を諦め、教室には分厚い防音カーテンが設置されることになりました。それは私が卒業するまでの間、一度も開かれることはありませんでした。これで一件落着、というはずもなく、その後も何かの折にあの「ぐしゃり」という音が、微かに聞こえてきていた気がします。


 そして、卒業式の日、私は見てしまったのです。

 最後のホームルームがあり、みんなで涙ぐんでいたその時、ふいに窓際に目をやった私の目の前を、Aさんが落下していきました。カーテンがあるはずですが、なぜかそれを透過するように、彼女の姿がはっきりと見えました。そして、聞いた話のとおり、Aさんの目は真っ直ぐにこちらを捉え、一瞬だけども目が合ってしまいました。その顔は、まだ自分の身に何が起こっているかもわからないような、そんな表情でした。


 その後、あの現象がどうなったのかは知りません。卒業した後も、あの話は同級生の間では禁忌タブーになっていました。わざわざ確認しに行くつもりも、私にはありません。


 これが、私が幽霊を少しだけ信じる理由です。あれが幽霊と呼べるものなのかどうかはわかりません。でも、Aさんの精神がその後どうなったかについては、なんとなくわかります。


 たぶん、彼女は今も落ち続けているんだと思います。

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落ちる 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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