七、


 玄関にはちょうどよく志呉の姿。珍しい組み合わせに驚いたのか、訝しむようにこちらに視線を向けている。今朝見た時よりも顔の血色がよく、少し安心した自分に嫌気がさす。出かけようとしていたところなのか、黒翡翠の数珠を腕に通していたところだ。

 細身だが、筋ぼねが逞しい腕。肌の白さは雪を欺くようで、浮いた血管が幾筋も走る。雪を欺くとは女性に用いられる言葉だが、今の志呉に対してはしっくりきてしまう。あの後で久しぶりに髭を剃ったのだろう、元より濃くはなかったその跡は、つるりとして女性のような造作を際立たせていた。

 あの女のような顔の、男らしい腕で、わたしは。

 身体が熱くなるのを感じ、志呉の腕から目を逸らす。こんな自分が嫌だ。それなのに嫌だと思えば思うほど、体は反応する。これまで繰り返されてきた行為に嫌悪感があるのは本当だが、心は、心はどうか。隠さなければ、この心の動きは。

「並木さん、ちょっと挨拶したいんだって」

 なんとか平静を装って絞り出した言葉に、志呉が心底面倒くさそうにため息を吐く。

 綺麗、だ。

 気だるげなその様子に、そう、思ってしまった。髭を剃っただけでこれほど印象は変わるのだろうか。つい昨日まで、清潔感など微塵も感じていなかったではないか。長めの髪は相変わらずぼさぼさだが──

 やはり、綺麗だ。

「出掛けるところだった?」

「ちょっとな」

「今日はどこの女……」

 自分の口から出た予想外の言葉に、自分で驚いてしまう。志呉が誰と寝ようが、さして興味もなかったはず。それがどうだろうか。わたしは今、明確に誰のところへ行くのか気になってしまっていた。志呉も驚いたのか、わたしの顔をじっと見ている。

「今日はどこの女のところに行くのか興味なんてないけど、並木さんの対応してからにして」

 わざとらしく言い直した自分に、何をしているんだわたしはと、心の内で呟く。志呉が向ける視線がいたたまれなくて、逃げ出すように一歩、後退った。

「印が、出ていたらしいですね」

 呟くような並木の声が、志呉に向けられる。印とはなんのことだろうと志呉を見れば、小さく舌打ちした後で頭を掻きむしり、苦々しい表情を浮かべていた。

「虫が湧いて死んだ姥沢浩介と花房友義。二人には忌女の祟りの印、いわゆる禍痕かこんが浮かんでいたと聞きました」

 印の次は禍痕。また知らない言葉だ。再び志呉の舌打ちが聞こえたが、今度は大きい。

「禍痕だぁ? 虫が湧いただぁ? 頭ぁ、大丈夫かよお前。その二人は病死。それ以上でも以下でもねぇ。たしかにこの集落には忌女信仰があるが、それはあくまで心の中の話だ。そんな話がしてぇなら、とっとと失せろ」

 有無を言わさぬ志呉の言葉。印や禍痕という言葉を聞いて、明らかに志呉の様子が変わった。

「言っていることがおかしいですね。あなたがた八塚家は、折に触れて祟りの話をしていると聞きました。決まりに背けば祟られて死ぬと」

「それはそういう教えだ。神木に霊木、猫に白蛇、呪いだ穢れだ祟りだなんてどこの地域にもあるだろ」

「二人、死んでいます。あなたの両親も祟りで死んだのなら、四人」

「てめぇっ!」

 今にも殴りかかりそうな勢いの志呉が、並木の胸倉を掴む。

「その反応、色々と本当のようですね。分かりやすいですよ、あなた」

 怒らせて情報を引き出そうとでもしているのか。なおも挑発するような並木の態度に、志呉が拳を振り上げた。並木は怯える様子もなく、淡々と「いいですよ、殴って」とさらに煽る。

 もしかすれば並木は、暴行罪あたりで志呉を引っ張るつもりなのかもしれない。なんにしてもよくない流れだ。

「殴るのは、だめ」

 振り上げられた志呉の腕に、そっと手を置く。

「ちっ」

 舌打ちとともにわたしに刺さったのは、冷えた志呉の視線。こんな温度のない視線は、はじめて向けられた。

「なんか勘違いしてんじゃねぇのか、お前」

 志呉が並木を掴んでいた手を離し、わたしに向き直る。

 え、と言う間もなく、今度はわたしの胸倉が掴まれた。ぎりぎりと首元が圧迫され、息が。壁際に追い詰められ、さらに首が締まる。声を出したいが、上手く発声できない喉はひゅーひゅーと鳴るだけ。苦しくて痛くて、涙が溢れてきた。鬱血しているのか、顔が熱い。

 さすがにまずいと思った並木が止めに入るが、志呉は微動だにしない。この細い体のどこにこんな力があるのだろうか、「どいてろ」という低い声とともに、足裏で蹴られた並木が呻き声を上げ、その場に蹲る。

「調子乗んじゃねぇよ。少し優しくされたくらいで勘違いしちまったかぁ?」

 唇が触れそうなほどに近付いた志呉の顔。ふっと首元を圧迫する力が弱まり、喉が乾いた音を漏らす。壁伝いにずるずると崩れ落ち、その場にへたり込んだ。空気を求めて息を吸おうとしたが、過呼吸のようにひ、ひ、と上手く吸えない。体は震え、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。「ご、ごめんなさい」となんとか声を絞り出したが、髪を鷲掴みにされ、無理やり顔を上げさせられた。

「もっかい、分からせてやるよ。お前はただの器。黙って搾取されてりゃいい」

 わたしの腕を引いて玄関を上がり、廊下で組み敷く志呉。抵抗はしてみるが、これが本気を出した男の力か。手も足も出ずにスカートをたくし上げられ、下着を。

 志堂に吸われた内腿の赤い痕が、毒々しく目に映る。

「や、やめろ」

 並木が蹲ったまま顔を上げ、苦しげに声を絞り出す。手にはいつの間にか手錠が握られていた。

「ふはっ」

 聞いた事のない笑い声が、志呉の口から漏れた。笑いながらゆらりと立ち上がり、髪を掻き上げる。漂う異様な雰囲気に、わたしも並木も固まってしまった。なおも志呉はゆらゆらと揺れながら笑い声を上げ、空気が冷えていくような、そんな薄ら寒い感覚。

「俺を? お前が? 逮捕? 糞みてぇな偽善ぶら下げて? 糞みてぇな正義感振りかざして? ふはっ」

 ゆらりゆらりと並木に近付いていく志呉。尋常ならざる雰囲気にあてられたのか、並木がじりじりと後退る。張り詰めた空気からか、身が刻まれるような心地。

 後退る並木の背中が玄関の扉に触れた刹那、志呉が跳んだ。次の瞬間には並木の手錠を握る手が蹴り飛ばされ、硬い三和土の上に組み敷かれる。並木のくぐもった呻き声が聞こえ、見れば首を腕で圧迫され、顔が鬱血して赤くなっていた。このままでは並木が殺されてしまう。だがなんとかしなければ、止めなければ、助けなければと思いはすれど、体が動かない。

 志呉が、志呉が怖い。まるで何かに取り憑かれたようで──

「そこまでにしろ」

 恐怖で硬直するわたしの背後から、聞き慣れた嗄れた声が。声のした方に視線を向けると、そこには志堂の姿。あれほど毛嫌いしていた相手のはずだが、安堵から体の力が抜けていくのを感じた。


 先程の掴み合いからしばらくして、客間で並木の手に包帯を巻く。蹴られた手には血が滲み、赤黒く腫れていた。本人は折れてなさそうだから大丈夫だとは言っているが、心配だから病院に行くようにと念を押す。

「逮捕、するんですか」

 口から出した言葉が庇うように聞こえてはいないかと、気まずさから目を逸らしてしまう。先程の志呉の行いは、普通に考えて逮捕案件だ。ましてや相手は警察官。言い逃れなど出来ようはずがない。志堂は「少し客間で待っていろ」と告げ、志呉を連れて奥へ消えたが、まさか逃げた訳ではないだろう。

「逮捕は無理そうですね。去り際、志堂に耳打ちされました」

「耳打ち?」

「はい。『今日は非番だと聞いた。署長によろしく頼む。それと、あまり澤本に酒を飲ますな』ってね。当然のように私の勤怠や行動まで把握されている。無理なんですよ、ここは。宇場ノ塚も八ノ塚も、言い逃れの出来ない証拠がなければどうにもならない。私の証言なんて握りつぶされる。だからこそ──」

 並木の視線が籠バッグに向く。

「ひやひやしましたよ。さっきの騒動で中身が飛び出さないか。調達したのは県外なので、おそらくバレてはいないはずです」

「やっぱり、やるんですか?」

「音声や書類などでの証拠があれば、動いてくれるつてがあります。まあ本当に祟りなのだとしたらどうしようもないですが、それに伴う様々な犯罪行為は罰することが出来ます。もしかすれば、祟りに見せかけた殺人かもしれないですしね。ああ、つてに関しては言いませんよ。色々と面倒でして」

 聞こうとしたことが、先に潰されてしまう。

「教えてくれないと、協力はしません」

「しますよ、あなたは。気になりますよね、写真」

「本当に嫌な人」

「刑事は嫌がられるのが仕事なので」

「本質の話です」

「これは手厳しい」

「それなら忌女の祟りの印、禍痕についてだけでも。聞いたことがない言葉だったので」

「本当に何も知らないんですね。禍痕とは──」

 忌女に祟られた者の体には、禍痕と呼ばれる小さな痣のようなものが浮かぶらしい。浮かぶ場所は様々。禍痕が浮かんだ者は、いずれ虫が湧いて死ぬ。集落の者であれば誰でも知っているようだ。

「禍痕を見れば、いつ虫が湧くのかだいたい分かるらしいですね。はじめはうっすらとしていて本人も気付かないらしいですが、虫が湧く前は濃くなるのだと」

 ──お前は明日死ぬ。虫が湧いて、死ぬ。私に従わなかったからだ。

 志堂が浩介に告げた言葉。つまり禍痕を見て判断したということか。翌日虫が湧いて死ぬと。だが従わなかったとはどういう意味だろうか。忌女の祟りとはいったい。

「祟りなんて、本当にあるんでしょうか」

 虫が湧いて死ぬなんて、祟りだとしか思えない。そう思っていた。だが並木は、祟りだとしか思えない事象に疑問を持っている。もしかすれば、祟りに見せかけた殺人かもしれないとも。

「どうでしょうね。この集落の雰囲気に呑まれて信じてしまいそうにはなりますが、私もまだ半信半疑です。それに私もあなたも、虫が湧いた現場を実際に見たわけではない。本当に虫が湧いたのか、それとも比喩的にそう言っているのか。禍痕とは祟りの印なのか、それとも」

 たしかに並木の言う通りだ。わたしも聞いただけで実際に見てはいない。この地に伝わる曰くや醸す雰囲気が、「祟り」という不確かなものを「ある」と思わせているだけ──なのかもしれない。

「まあなんにせよ、です。祟りなのだとしても祟りを隠れ蓑にした殺人なのだしても、放っておくわけにはいかないのは確かです。なので、お願いしますよ」

 再び籠バッグに視線を向けた並木。当初は嘉明の不義理の相手が知りたいという思いから結んだ協力関係のはずだった。だが今は、以前からわたしが抱えていた違和感や疑問の答えに辿り着けそうな気がして、「分かりました」と小さく頷いた。

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禍系図 鋏池 穏美 @tukaike

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