六、
この男は、わたしに八塚家のスパイでもしろと言うのだろうか。もちろんわたしだって、昔から抱えている違和感の正体を知りたい。だが並木に協力したとして、それは八塚家を裏切ることになる。となれば母や嘉明が八塚家からどんな仕打ちを受けるか分からない。
八塚家に、志堂に逆らえば、待っているのは──
死。
悍ましく虫を吐き出して──
死ぬ。
「申し訳ないのですが、期待には応えられません」
そう答えたわたしの目の前、一枚の写真が揺れる。並木が手帳から抜き出したようで、暗がりの中で抱き合うおそらく男女。口を、深く口を吸っているように見える。
おそらくと言ったのは写真が暗く、二人の姿が判然としないからだ。だが嫌な予感はする。知りたいけれど知りたくない。そんな事実をこの写真が暴いてしまいそうな。
眼前でひらひらと揺れる写真に心臓の鼓動がせかされ、思考も散り散りとなって騒ぐ。暑さからではない汗がじわりと滲み、縋るように伸ばした指先は、僅かにわなないていた。
「すみません、写りが悪くて」
申し訳なさなど、微塵も滲ませてはいない並木の顔。むしろ挑発しているように感じてしまうのは、余裕のない心の内のせいだろうか。写真に写っている男は、おそらく。
「これが誰と誰なのかは明言しません。ただ、あなたが私に協力すると言うのであれば──」
さっと手帳に写真を戻した並木が、「女性が誰なのか調べてもいいですよ。あ、男性の方も知りたければ」と微笑む。
白々しい言葉。おそらくこの男は、わたしのことを事前に調べている。調べたうえで、取引材料に写真を撮影したのだ。手のひらの上で転がされている不快感に、目眩を覚える。
「自分で調べます」
「逢瀬はあなたが八塚家で
「……誰かに聞いてみます」
そうは言ったが、誰も教えてはくれないだろう。それはなんとなく分かっている。わたしだけ知らない。わたしだけが除け者。そもそもなぜ、わたしが志堂に抱かれている時間を狙って会っているのか。写真に写るのが嘉明だとして、わたしと嘉明はもう終わった関係。わたしに知られないように行動する意味が分からない。志堂に抱かれる時間を知っていることにも違和感を覚える。志堂が話したのだろうか。いや、志堂はそんな無駄なことをしない。となれば志呉だろうか。
分からない。
分からない、分からない。
頭がおかしく、なりそう。
並木に視線を向けると、薄く笑った。
「誰も教えてくれないですよ、あなたには。七、八年の仲だと噂されていますが、あなたは知らなかった。こんな狭い集落で、あなただけ」
「教えて、ください」
揺れながら漏れた本心に、どの口が言うのだろうと自分でも思う。わたしは愛してもいない二人の男に、ほとんど毎日のように抱かれている。四年間も、だ。それなのにも関わらず、終わったはずの相手が誰かを抱きしめているというだけで、口を吸ったというだけで、激しい嫉妬の心が顔を出す。
頭では分かっている。わたしに嫉妬をする資格なんてないのだと。だが心は言うことを聞かず、求めるように並木に向けた視線は、おそらく醜いのだろう。
「直球ですね。ひとまず、協力してくれ──」
「どうすれば、何をすれば、その女を」
かぶせるように口から出た言葉で、並木の口角が僅かに上がる。これ以上踏み込んではだめだ。嘉明とはもう終わったんだ。今さら知ってどうなる。分かっている。そんなことは分かっている。だが──
知りたい。
知りたい、知りたい。
知りたい、知りたい、知りたい。
──嘉明には八年前から関係を持っている相手がいる。
思い起こされる志呉の言葉。並木も噂では七、八年の仲だと言っていたし、もうこれは確定事項なのだ。それに志呉は噂などではなく、明確に知っているような物言いだった。つまり八年。
八年前からこの集落内で、わたしの、嘉明に。
椿先輩だろうか。それとも桐子だろうか。八年前からであれば、五つも下の茉里愛は現実的では無い気がする。
思い返してみれば、椿先輩や桐子に何度か嫉妬したタイミングはあった。
──椿さんに勉強を教えて貰っていたんだ。
嘉明の家から椿先輩が出てきた際の言葉。家から出てきた二人が仲睦まじそうに見えたのは、わたしの心が醜いから。嘉明の家には両親もいるし、疑ったわたしを恥じた。
──怪しい人影を見たって桐子に言われたから。
集落の西、藪の中から嘉明と桐子が出てきた際の言葉。二人の肌が上気し、服が乱れているように見えたのは、わたしの心が汚れているから。藪中を歩いたのだから、服が乱れて息が上がるのは当然だろうと、浅ましい自分に嫌気がさした。
そんなことが何度か。いや、何度も。
椿が、桐子が。
誰が、誰が。
そういえば、茉里愛の頭を撫でる嘉明も嫌いだった。
その手は、わたしに。
皮下が、ざわつく。
胸の内から悍ましい何かが這い出るような、そんな感覚。嫉妬か憎悪か、虫が湧くように、ざわざわと。
嘉明の相手を知ったら、わたしは。
「怖い顔してますね」
並木の言葉に、はっとして顔を上げる。わたしは今、何を考えていたのだろうか。いつからこんなに浅ましく、みじめに堕ちたのだろうか。
「このこと、わたしが八塚家に報告したらどうします?」
もちろんそんなつもりはない。すでに私の中で答えは出ている。並木に協力しようと。これはわたしの心を掻き乱した仕返し。正直な話で言えば、八塚家に、志堂に逆らうのは怖い。ただ今は、その恐怖心よりも嘉明の相手を知りたい気持ちが勝っていた。
「あなたは言いませんよ」
「なぜ、言い切れるんでしょう」
「勘です」
「勘で危ない橋を?」
「普段は石橋を叩きますが、手詰まりでして」
「わたし、腐りかけの木橋かもしれません」
「では造った方の腕がいいのでしょうね。あなたは崩れない」
「すごい自信」
「まあお気付きだとは思いますが、あなたのことは事前に調べているので」
「勘って言葉の意味、知ってます?」
「では経験に基づいた勘という言葉、知ってますか?」
「嫌な人」
「私もそう思います」
わたしがどんな人間なのか、並木は把握しているのだろう。物分かりがよく、何も言わない女。これまで様々な違和感を抱えながらも何も言わず、誰とも衝突せず、ただ流されるように生きてきたわたし。衝突したとすれば、浩介くらいか。
「わたしは何をすればいいんでしょうか」
「これを」
差し出された手のひらの上のものを見て、固まった。黒く小さい機械が三つ。これはと声を漏らしたわたしに、並木はさも当然のように「盗聴器です」と答える。
「並木さんは、警察の方なんですよね?」
「そうですよ。澤本課長と一緒にいるところ、見てますよね」
それはそうなのだが、わたしの言いたいことはそうではない。警察が一般人に盗聴器を仕掛けさせるなんて、聞いたこともない。小説で通信傍受に関する法律というのが出てきた覚えはあるが、たしかそれは電話やメールに対してであり、盗聴器の設置はやはり犯罪になるのではなかったか。おそらく並木も、わたしの言いたいことは分かっているのだろう。顔が、わざとらしい。
「手帳、見ても?」
「どうぞ」
開いた手帳を眺めるが、怪しい箇所は見受けられない。そもそも警察手帳に対する知識なんて、小説で読んだものしか持ち合わせていない。わたしが見たところで、どうにもならないことは分かっていた。
並木が手帳を閉じ、再び盗聴器を差し出す。
「これは壁コンセント内に組み込むタイプのものです。集音範囲はおよそ五メートル。一つはよく使用する固定電話の近くにお願いします。残り二つは客間と玄関。それでめぼしい成果が得られなければ、仕掛ける場所を再検討します。まあ長期戦ですね」
「壁コンセント内?」
「ああ、設置の仕方でしたらこれを」
並木が鞄から出したのは二冊の上製本、いわゆるハードカバーの小説。
「これは」
「中をくり抜いて、それぞれの受信機とレコーダーを入れてあります。私が分かりやすく書いた説明書も。通話とメールだけ利用可能な携帯電話も入っていますが、電源を入れるのは午前六時に一度。たしか夕方のお茶出しと、夜のお勤め以外は自由なんですよね」
「そうですが……」
趣味の読書やお茶出しの時間まで把握されている。この男はいったいどこまでわたしのことを調べたのだろうか。ふと、本当にこの男を信じていいのだろうかと不安になる。
「では午前六時、それが定時連絡です。レコーダーは週に二回。最低でも一回は確認したいので、定時連絡で回収場所と時間を伝えます」
戸惑いの無言が肯定と捉えられたのか、不安をよそに話が進んでいく。わたしがいるようで、いない。流されるがまま、言われるがまま。
器。
そう、わたしは器なのだ。
自分というものが空っぽで、おそらく中身はがらんどうの器。そこに納まっていたのが、嘉明。ずっとずっとそう。今も嘉明が納まっていて、それがこぼれ落ちそうで焦っているのだ。いや、最初から納まってなどいなかったのか。わたしは、わたしは嘉明のなんだったのだろう。
「ふふっ」
今も信じているのではなかったか。今も愛しているのではなかったか。いつの間にか写真の男が嘉明だと決めつけている自分に、笑ってしまう。笑ったわたしを見て、並木が少し怯えているように見えた。
「一つ、あなたの明確な目的だけでも教えてください」
「知ってしまったから知りたい。罪には罰を。あなたならこの気持ち、理解出来るんじゃないですか」
罪には罰を。暗に嘉明の不義理のことを言っているのだろう。本当に、嫌な人。
「盗聴器も罪だと思いますが」
見つめた並木が苦笑いして、「そうですね」とだけ漏らした。
「とりあえず、やれるだけはやってみます」
「ありがとうございます。写真の人物に関しての情報は、回収したレコーダーの内容を確認してからにします」
「わかりました。わたしがちゃんと仕掛けるか分からないですからね」
細工した上製本を受け取り、籠バッグにしまう。手の中でずしりと増したのは、裏切りの重み。
「並木さん、この後はどうするんですか?」
「私は──」
並木が八塚家に挨拶に行きたいと言うので、ひとまず玄関まで案内することにした。
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