五、


 大きめの籠バッグに水筒やハンカチなどを詰めていく。水筒の中身は水出しの麦茶。少し前までは好んで紅茶を飲んでいたが、やはり夏は麦茶だ。

 玄関で八芒星の飾りの付いたネックレスを手に取り、首から下げる。これは八塚家の証。男は八芒星の印が刻まれた数珠のブレスレット。外出する際に身につけ、戻ったら外して玄関に置く。ネックレスは純銀のチェーンと土台で、黒翡翠が嵌められている。数珠も黒翡翠で、どうやら厄払いや邪気払いの効果があるらしい。

 一塚いちづか二塚にづか三塚さんづか四塚よんづか五塚ごづか六塚ろくづか七塚しちづか八塚はちづか。宇場ノ塚と八ノ塚を囲むように、穢れを払う八つの塚があるのだと志呉が教えてくれた。それらを繋ぐことで、八芒星の結界になるのだと。

 八芒星を描く北端は八塚家の裏手にある八塚はちづか。大針山を四十分ほど登った位置にあるようで、元は穢れを払うための塚だったのが、今は忌女を鎮めるという意味合いもある。

 忌女に祟られたくないなら行くなと志呉は言っていたが、元から行くつもりはない。いや、行こうとして行けなかったという方が正しいだろう。

 何度か大針山を登ろうとしたことはあるのだが、いつも五分ほど登ったところで嫌な感覚を覚えるのだ。なんと表現すればいいのだろうか、虫が皮下を這いずるような、そんなざわざわとした不快感からいつも引き返していた。大針山の山道で志呉に抱かれた際もその感覚はあったが、羞恥と嫌悪、何より体に刻まれた恍惚が、覚えた不快感に蓋をした。

 八塚家。忌女。穢れ。祟り。虫。

 もしかすればいずれわたしも、虫が湧いて。

 昨夜見た虫が湧く夢を思い出し、かぶりを振る。干上がった喉を潤すように、水筒のお茶を一口飲んだ。

 ──奇遇ですね。よければ少し話しませんか。

 並木に呼び止められたのは、八塚家からの坂を下って五分ほどの場所。軽い調子で声をかけられたが、手帳片手のその佇まいは尋問のようだ。やはり並木は浩介の死に、何らかの事件性を感じているのだろう。

 八塚家は集落の北端、大針山へ到る山道の手前にある。集落内を散歩するには、ひとまず大針山から流れる八木川沿いの道を下らなければならない。一本道で東側には八木川。西側は昼でも仄暗い、獣道すら見当たらない藪。下った先には、八木川の流れを利用した水車小屋。

 わたしはこの水車小屋から先を集落と呼んでいた。もちろん八塚家も集落に含まれるのだが、水車小屋まで来ることで、重苦しい雰囲気から解放される気がするからだ。

 並木が立っていたのは、この水車小屋の横。遠目からも、この寒村に似つかわしくないスーツ姿が目立っていた。集落内を散歩するには並木の前を通らなければならず、避けようがなく今に至る。正直わたしは何も知らないし、面倒ごとは避けたかったのだが……。

 並木も坂を下るわたしを見咎めた様子だったが、立ち去ってはくれなかった。いつもであれば、澤本というあの厳つい刑事が並木を引きずっていくところだが、残念ながら今日はいない。

「今どき珍しいですよね」

 水車小屋を物珍しそうに眺めていた並木が、感心したように呟く。

「そうですか。電気などを使用しないので、なにかと便利だとは聞きます。この辺りはそば栽培を生業としている家も多いですからね。石臼で挽き、つなぎを使用しない十割そばは美味しいですよ。九月下旬頃が収穫なので、もうすぐ香りのよい、新そばが食べられます。夏に太平洋から吹き付けるやませの影響でしょうか、冷涼な気候がそばの生育に適しているようです。八ノ塚に行けば、尻屋産昆布で出汁を取った美味しいそば屋もありますよ。わたしは焼き干しで出汁を取った、醤油ラーメンの方が好みで──」

「よく喋りますね」

 一言、並木の言葉がわたしの思惑を断ち切った。面倒な奴だと立ち去ってくれればと思ったが、そんな訳もないかとため息を吐く。

「聞きたいのは姥沢浩介の死亡について。それに伴い、あなたの父、花房友義はなふさともよしの死亡と、八塚志葉やつかしよう八塚操子やつかみさこの死亡についても」

 かちりとボールペンを鳴らし、「それとあなたについてもね」と付け加えられた。

 正直、何を言いたいのかが分からない。浩介の死亡について不審な点があるのは理解出来る。だがそれと父の死が同列で語られたことに、違和感しかない。父が死んだのはわたしが生まれた年。つまり二十二年前だ。浩介の死亡に関係あろうはずがない。

 だが並木は、「それに伴い」と言った。つまり関係していると考えていることになるのだろう。そのうえ八塚志葉と八塚操子は志呉の両親だ。穢れによって死んだと志呉からは聞いたが──

「すみません。お答えできることはなさそうです」

 そう、答えられることは一つもない。そもそも浩介の死亡現場は見ていないし、父の死も覚えていない。父は物心つく前からいないものだったし、志呉の両親のことなんていつ死んだのかも知らない。知っているとしたら、父が病死したということだけ。

 なおも刺すような視線を向ける並木から、逃げるように歩き出す。

「そうですよね。あなただけ、何も知らないんですもんね。この集落で、あなただけが」

 含みを持たせた並木の言葉に、立ち去ろうとした足が止まる。振り向いて見た並木の顔は、少しにやついていた。どうやらわたしは、この男の思惑通りに足を止めてしまったようだ。確信をついた並木の言葉がわたしを貫き、この場に縫い止めさせた。

「……どういう意味でしょうか」

 動揺から声が震えてしまう。昔から違和感は覚えていた。わたしだけ知らないことが多いと。自分の中でだけなら処理出来ていたものが、他人に指摘されたことで形を成す。

 この集落の曰くや様々なことも、志呉に聞くまではほとんど知らなかった。わたしだけ、教えてもらっていない。示し合わせたように、わたしだけ。まるで何かから遠ざけるように、わたしだけが除け者。

 だからこそ志堂の元へ来る際、止めもしない嘉明や母の態度に、無理やり理由をつけて納得しようとした。聞いたところで答えて貰えないと知っていたからだ。

 ──なんでお前、そんな物分かりいい顔してやがんだ。

 志呉に初めて会った際、言われた言葉。

 ──黙って抱かれて馬鹿みたいだな、お前。

 志呉に初めて抱かれた後で、言われた言葉。

 もちろん聞きたいことは多かったし、それとなく聞いたりもしている。だが志呉からすれば、わたしは物分かりがいい、従順な女に見えたのだろう。それが気に入らないようで、いつも志呉はいらついていた。ときおり自分でも、物分かりのいい自分に嫌気はさしている。

 ──あなたは気にしなくていいのよ。

 ──祝織は知らなくていいことだから。

 ──俺と嘉明がいればいいだろ。

 ──花房さんには関係ないことだから。

 ──花房さん、ここでは宇場ノ塚のことはあまり聞かないで。

 聞くな。知らなくていい。関係ない。口にするな。花房が来た。姫が。巫女が。祝織が──

 出来上がったのが今のわたしだ。

 従順な、馬鹿みたいな、わたし。

「言葉通りの意味です。あなただけが何も知らない。あなたの父、花房友義は病死ではありません。まあ書類上は病死ということになっていますが、違います」

「それは確かなんですか」

「いえ、確かではありません。虫が、死出虫が湧いて死んだと、証言した人物がいます。といっても、今は証言を覆して病死だと言い張っていますがね」

 死出虫。動物の死体に集まり、それを餌とする甲虫。浩介にも湧いた、黒く悍ましい虫。それが父の死の原因だというのか。

「さらにその人物は、死亡前の花房友義が八塚家で言い争いをしていたとも証言している。当時存命だった八塚志葉とね。まあこの証言も今は覆しています。元の証言が本当なら、今回の姥沢浩介の死亡状況と似ているとは思いませんか? 八塚家に乗り込んだ後で虫が湧いて死んだ。これはどういうことなんでしょう。ただ、今回と違うのは花房友義の死亡と同日、八塚志葉と八塚操子も死亡していることです。この二人に関しても病死ということになっていますが、さて」

 かちかちとボールペンを鳴らした並木が、じっとわたしの反応を伺う。ぎらつくその目に、肌がひりつくようだ。

「志呉の両親が……、父と同じ日に?」

「そうですね」

 ぞわりと、得体の知れない不安が押し寄せる。わたしの知らないところで何かが蠢いている。ざわざわと這い出る虫のように、不穏な何かが。

「志呉の両親にも、虫が?」

「どうでしょうか。聞いた限りでは虫は湧いていないとのことですが、この集落は信用が出来ない。死亡診断書を含め、様々な書類が改竄されている可能性がある。おそらく八塚家の指示で。すべてただの病死で片付けられ、詳しく調べられた形跡もない。火葬時間を早めるために、記録に残る死亡時刻ですら怪しい」

「そんなことが許され……」

 続く言葉を飲み込んでしまう。八塚家なら有り得ない話ではないと。それほどにこの集落は、八塚家に支配されている。詳細は分からないが、八塚家に食ってかかった二人が死んだ。虫が、湧いて。

「あなたは誰からそれらを聞いたんですか? 証言したのはいったい……」

 並木が言う証言者。証言を覆していることからも、言ってはならないことを言ってしまったのだろう。わたしだけが知らない、この集落の悍ましい何かに触れ得ることを。

「澤本課長ですよ。酔わせたら色々と話してくれました。まあ、翌日には発言を覆しましたけどね。あれは八塚家の身内のようなものなので」

 汗と脂に塗れた厳つい刑事、澤本の顔が浮かぶ。澤本の目はどこか怯えているようだったし、わたしに対して「ご勘弁を」と言っていたことも腑に落ちる。やはりあの言葉はわたしにではなく、八塚家に。

「身内というのは?」

「代々澤本家は、八塚家に取り入ることで甘い汁を吸ってきたようです。軽蔑しますよ、心底ね」

 並木の表情が、澤本に対する嫌悪感を示していた。先程も上司である澤本を「あれ」呼ばわりしていたし、言葉通り、心の底から軽蔑しているのだろう。

「なので警察は信用しないでください。澤本課長だけでなく、警察署自体が八塚家の影響下にある。警察も、病院も、役所も学校も、ここでは何も信用出来ない」

 かぶりを振った後で、こちらに視線を向ける並木。聞かされた内容はにわかには信じがたいし、いったいわたしに何を求めているというのだろうか。浩介の死や父の死。それに加えて志呉の両親の死。並木がそれらに疑念を持っていることは分かった。だがわたしは本当に何も知らない。

 そもそもそれらを調べたところで、警察や病院、役所まで八塚家の影響下にあるのならば、何をしたところで無駄なのではないだろうか。八塚家が病死と言えば病死になり、そんな事実はないといえば、事実もなくなる。

「言っていることは理解しました。ですがあなたは何がしたいんでしょう。やはりわたしは何も知りませんし、あなたが八塚家のことを調べているのだとして、役には立てないかと……」

「私と協力しませんか?」

 思いがけない並木の言葉に、え、と声が漏れた。

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