四、


 寝具の洗濯を終え、庭の物干しで陽に当てたのは午前七時。季節は夏。天気もよく、お昼までには乾きそうだ。

 志堂にお茶を持っていく十八時まで、何をして過ごそうかと考える。本を読もうか散歩でもしようかと僅かに逡巡し、選んだのは散歩。散歩がてらわたしの家に寄れば、新しく本も調達できる。なにより嘉明に会えるかもしれない。もちろん会ったとして、わたしに許されているのは当たり障りのない会話。

 嘉明もわたしの背後にいる八塚家を意識してだろう、立ち入った話は聞いてこない。そう、思うようにしていた。そう思わなければ、違和感に押しつぶされそうだった。もしかすればわたしのことなんて、本当は最初から。

 ──嘉明には八年前から関係を持っている相手がいる。

 志呉から聞き出した嘉明の不義理が、じわりと心を削る。信じたわけではないが、撒かれた不安の種は消えてはくれない。それはわたしの中で芽を出し、茎を伸ばし、葉を広げ、懐疑の花を咲かせて嫉妬の実を。

 もし仮に志呉の話が本当なのだとしたら、不義理の相手はいったい。今頃は笑っているのだろうか。嘉明と二人、何も知らないわたしを。

「許せない」

 どろりとした感情が声になって漏れる。だめだ。早く、散歩に出よう。散歩をして気分転換でもしなければ、頭がおかしくなってしまう。


「隠せない、か」

 ひとまず準備のために部屋に戻り、鏡台の前に座って呟く。昨夜志堂に吸われた首筋の痕。手持ちの化粧道具では上手く隠せそうにない。それなら絆創膏と思うが、覗いた抽斗で切らしていることに気付く。ストールやスカーフなどの洒落たものは持ってはいないし、となれば絆創膏を取りに一階か。

 この時間、志堂はすでに作業場で、志呉はまだ寝ているはず。朝からあれらに会うのは気が滅入る。顔を見ることで、器としての勤めを思い出してしまうことも嫌だ。せめてあの時間以外は、わたしでいたい。

 一階の居間へ向かう途中、無数の仏像と目が合う。無駄に広い八塚家だが、至るところに配置された仏像のせいだろうか、圧迫感で息が詰まる。

 八塚家は集落でも一番の規模の家で、入母屋造の屋根が目を引く外観だ。法隆寺をはじめ、お城の天守閣で使われているのがこの入母屋造の屋根だと、最近読んだ小説に書かれていた。他の家々が切妻造や寄棟造の屋根がほとんどなうえ、大針山に向かう山道の手前、高い位置にあることでなおさら目立つ。

 中も中で手が込んだ造り。居間や渡り廊下に面した猫間障子の組子細工は美しく、欄間の意匠も芸術的で厳か。家を支える剥き出しの柱にも、細やかな細工が施されている。螺鈿細工の家具や漆器も多く、壊せば三桁はくだらないと志呉に脅されたのを思い出す。

 ──お城のような家ですね。守っているのはなんなのでしょうか。

 浩介の葬儀からの帰り道、若い男の刑事にかけられた言葉。短く刈り揃えられた黒髪に、細く鋭い目。たしか並木なみきと名乗っていたか、年は三十代前半くらいで、スーツ越しでも分かる引き締まった体。身長も百八十はありそうだ。

 どうやら浩介の死に様が死に様だったらしく、念の為の捜査だとは言っていた。念の為と言いつつも、わたしに向けられた目はぎらついて、居心地が悪かったのを覚えている。

 ──あなたはたしか、八塚家の……

 続く言葉は、「並木君、彼女は関係ない」という別の声に遮られた。遮ったのは、並木とともに葬儀を訪れていた厳つい雰囲気の刑事。澤本さわもとと名乗っていたか。こちらは五十を過ぎたくらいだろう、滲む汗と脂をしきりにハンカチで拭っていた。

 ──すみませんね。こいつは配属されたばかりなので、どうかご勘弁を。

 不服そうな並木を後目に、澤本が言った言葉。果たして「ご勘弁を」という言葉は、わたしに向けてなのか八塚家に向けてなのか。澤本の目はどこか怯えているようで、並木を引きずるようにして、足早にその場を去って行った。

 その後も何度か二人を目撃したが、何か聞きたそうな並木の視線だけで、接触は今のところない。

「早起きなんて、珍しい」

 居間に入ると、黒革張りの長椅子に志呉がもたれかかっていた。志呉が起きるのはいつも昼過ぎで、こんな時間に居間にいることなどほとんどない。

「目が覚めちまってな」

 気のせいだろうか、そう呟いた志呉が、少し疲れて見えた。

「疲れてる?」

「昨日、誰かさんのせいでな」

 卑猥なジェスチャーをする志呉。あいかわらずの態度に、ため息が出る。

「心配して損した。そこどいて」

 長椅子から投げ出された志呉の足先を、同じく足先で小突く。別にそんなことをしなくとも通れるが、こうした方が面倒が少ない。志呉の猥雑な行動に恥ずかしがっていると、しつこく絡まれてしまう。

「なに探してんだ」

「返してよ」

 戸棚の薬箱を手に取ると、いつの間にか背後にいた志呉に奪われた。奪い返そうとするが、「どんくせぇ奴だな」と、軽くあしらわれる。わたしは背が高い方ではあるが、百八十はあるであろう志呉に勝てるはずもない。諦めてため息を吐くと、顎を片手で持ち上げられ、じっと見つめられた。

 はっきりとした二重と長い睫毛。無精髭がなければ造作は女性のようで、宇場ノ塚の女が志呉に魅入られてしまうのも、少し納得出来る。もちろん寝癖でぼさぼさの長い髪に、清潔感などは微塵もないが。

「具合が悪そうには見えねぇな。怪我か?」

「散歩に行くから、首の痕を隠したいの。絆創膏、取って」

「ああ、じじいが吸った痕か。ちょっとここで待ってろ」

「待つ? なにを……」

「いいから座ってろ」

 そう言い残し、志呉が居間から出ていく。待てと言われて立ち去っては後々が面倒なので、大人しく長椅子に腰を下ろす。しばらくして、志呉が化粧箱を持って戻ってきた。

「誰の?」

「俺のだ」

 開いた化粧箱には、みっちりと化粧道具が詰まっていた。「だいぶ赤いからよ、まずはグリーン系の下地だ」「下地がなじんだら次はオレンジ系のコンシーラー」「次は肌に近い色」「何色も重ねて調整すると自然になんだ」「最後は軽くパウダーで仕上げて──」と、器用に首の痕を消していく。「ほらよ」と渡された手鏡を見て、素直に「すごい」と声が出る。

 口で吸われた痕は、いわゆる内出血。赤々としたそれは、化粧で隠すのは難しいと聞く。だが志呉が施したそれは、本来の肌と変わらない仕上がり。

「絆創膏なんてみっともねぇからよ」

「そうだけど、でもなんで」

 志呉との付き合いは長いが、まさかこんな特技があるなどとは思いもしなかった。化粧を施す手先は繊細で、わたしを辱める荒々しさは微塵も。むしろ柔らかく添えられた手が、心地よくすら感じた。

「なんでって、優しくしたことか?」

「優しくした自覚はあるんだ」

 志呉が舌打ちし、「調子乗ってんじゃねぇよ」と睨む。そこにはいつもの乱暴さがなく、やはり疲れて見えた。こんな志呉は見たことがないし、少し心配している自分が嫌になる。悪人は悪人らしく、弱ったところなんて見せないでほしい。

「いつ覚えたの、化粧」

「関係ねぇだろ」

「じゃあいいや、とりあえずありがとう」

 興味なく立ち去ろうとすると、再び小さな舌打ちが聞こえた。志呉に対しての立ち回り方が上手くなる自分に、少し笑いそうになる。

「……家が家だから無理だって分かってたけどよ、目指してたんだ」

「目指してたって?」

「メイクのスタイリストだ。お袋、ここに嫁ぐ前に東京でやってたみたいでな。ブライダル関係だったか。遺品に色々残ってて、それでなんとなく、気付けば目指してた」

「そうなんだ。それなら今からでも──」

 言いながら志呉を見ると、これまで見た事のない険しい目をしていた。それはまるで抜き身の刀のようで、わたしの続く言葉が断ち切られてしまう。こっちの心や体には有無を言わさず立ち入るくせに、わたしには入ってくるなと言うのか。

「……俺は宇場ノ塚だからよ、無理なんだ。お袋が東京行けたのは八ノ塚の出だから──」

 ぴたりと志呉の動きが止まる。その様子を訝しんでいると、「くくっ」と志呉から笑い声が漏れた。長めの髪を雑に掻き上げ、脱力したように笑っている。その姿はどこか絶望しているようにも見え、かける言葉が見つからない。しばらく無言で志呉を見つめていると、小さな舌打ちが鳴る。

「柄にもなく話しすぎたな」

 覇気のない声に、戸惑ってしまう。高圧的で、馬鹿で、奪うだけの男のはずだが、なんだか少し愛おしく思えた。そっと触れることで、簡単に崩れてしまう砂上の楼閣。そんな脆さを垣間見た気がする。愛おしくて、抱きしめてしまいそうな衝動。わたしへの仕打ちを考えれば、愛おしいなんて馬鹿げているが──

 たしかにそう、感じた。

 胸が苦しい。これ以上そんな弱さを見せないでほしい。高圧的で、馬鹿で、奪うだけの男でいてくれなければ、わたしは。

 乱暴に、雑に、みちみちと音を立てるように立ち入られた心が、体が、熱を。

 これは犯人に好意的な感情を抱く心理状態、いわゆるストックホルム症候群のようなものなのだろうか。にわか知識ではあるが、そうでなければこの胸の苦しさは説明出来ない。そうなれば、これは一時の気の迷い。やはり愛おしいなんて、馬鹿げてる。わたしは、嘉明が。

「話が終わったなら、どいて」

 浮かんだ気の迷いを振り払うように、志呉の胸を軽く押す。よろめいた志呉の顔が泣きそうに見えたのは、わたしの気のせいか。

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