第31話 ぐちゃぐちゃ
ふと、スマホの左角を確認したら、一時四十四分。
ドラマを待機するには少し早いかと思っていたら時刻は四十五分になり、キリの良さが決め手となって翔真はリビングへと向かった。
「あきー……あっ」
やべっ、と口をつぐむ。
いないかと思ってそこそこの大声を張り上げかけた。
すでにテレビ前へ座している暁だが、翔真が訪ねてきたことには気づいていないらしい。
後方にいる翔真からだと髪が見えないほどうつむいた姿勢で、ぶつぶつぶつぶつと一人で喋っている。
「ガイ、朝になったらどうしていつもいないの──……朝になったらどうして。どうして……違う、どうして、どうして──」
しばらく立ち聞きしていると、台詞練習をしているんだとわかった。声のトーンや感情について、チューニングともいえるような細かな調整をしている。
邪魔をしたら悪いなとオーラを消していると──どさり。厚みのある音がした。
どうやら練習に区切りがついたらしい。ソファの背もたれに暁が体重を乗せた。
がくんと落ちたままになっていた首をストレッチするように、天井を見上げてぼんやりとしている。
頃合いを見ていた、そんな雰囲気は出さないようにして暁の隣にかける。
「ドラマあと何分?」
「……ぬあっ、えっとー、十分ちょい」
反動をつけて暁は起き上がった。
ちらっと目線をローテーブルの上にやると、開いたままの台本が置かれている。
台詞練習の初めに比べると、もうずいぶんとよれてしまった紙。
翔真が目撃したほんの数分間でも、ページを頻繁に往来していたくらいだ。
暁が頑張っている証だと思うと尊い。
「いつ撮るの?」
それ、と青い付箋についてたずねた。
てろてろと指先でなぶる。
台本は鞄の中に裸で入れているらしいから付箋の端は丸まっていて、和紙みたいにふわふわした感触が癖になる。
「撮影は……明日」
「ふうん」
翔真が返事するそばで、さりげなく暁が台本を閉じようとする。
そうするだろなと、性悪にも予想していた。
装丁の向きとは反対方向に。
裏表紙が仰向けになるようにしたのには、そこまでするかと少し呆れたけれど。
「俺が練習相手しようか?」
「え?」
「してやるよ」
すっと台本を滑らせて自分に寄せる。
「ガイとのシーンだろ? どんな場面」
「えっ、ちょっ……」
困惑は伝わっていたが、翔真には引けない理由があった。
翔真がガイの代役をするのを、なぜだか暁は避けたがる。
台詞練習のスケジュールを組むのは暁で、だけど暁──つまりはソラが物語で絡むのはほとんどがガイなわけで、ゆえに翔真は『夜明けは君と過ごせたら』の台詞練習に誘われない。
その真相をそれとなく探るには、ドラマの放送日が一番の好機なのだった。暁には悪いが、しばし試させてもらう。
「台詞の量もだけど、やっぱ主演ってなると台詞の長さもすごいな。このページとかほぼ丸ごと半ページじゃん」
「いや、いいよ。翔真」
「いいよって?」
「練習、付き合ってもらわなくて大丈夫」
そうくるだろうなとは心構えていたが、聞かされると『なんで?』がやはりくすぶる。
「まだ時間あるんだろ?」
言いながらテレビ端のデジタル時計を確認したら、さっきより数分減ってあと十分。
だけど先週、先々週とドラマは定刻でスタートしなかったからやっぱりあと十分は時間を余らせる。
「ドラマ観終わったらすぐ寝なきゃいけないんだし、最後のチェックってことでいいじゃん」
どれどれ、と机を覗き込む姿勢で台本をめくる。
「えっと……ここかな。二十六ページ。ガイとソラが窓の外を見ながら話すところ?」
会話はガイの呟きから始まる。
「読むぞ。『雨降るなんて、天気予報じゃ言ってなかったのにね』」
次はそっちの番と、台本を指で押した。暁に見えやすいように傾ける。
だが暁は黙ったままでいる。
「暁──」
「だから翔真は練習手伝ってくれなくていいんだって」
「なんで」
「だって、このページは平岡くんと明日するから」
はぁ? と意味がわからなさすぎて不快な域にまで達する。
「それ本番だろ?」
「そうだけど」
「ていうか平岡と読むから練習いらないとか言い出したらもう、全部じゃん。俺いらないじゃん」
ドラマじゃなくて、例えばそれが映画だって。翔真は裏方としてしか暁に協力できない。そんなのは暁がよくわかっていることだろう。
だというのに自分がどれだけおかしな理屈を通そうとしているのか。
暁に説こうかと思ったが、無駄口を叩いている場合ではなかった。
「もっかい読むから、次は──」
「だからいらないんだって!」
いきなり暁が声を荒げた。
何に対しての怒号であったのか。
瞬時に翔真は理解できずに、ややあって、あぁ自分の挙動にかと腑に落ちた。
机から台本を持ち上げようとしていた。
「……ごめん」
素直に謝る。怒りをうまくコントロールできる暁があんなに、と思うと当然のこと。
いつもの暁なら翔真の「ごめん」には場をなだめるための「ごめん」を添わせそうなものだが、
「いらない、は言いすぎたかも。でも翔真に手伝ってほしいところはちゃんと伝えてるからさ」
自分の意見をしっかり伝えてきて、しかしそれは翔真の疑問へのアンサーとはズレており、やりきれなさが募っただけだった。
「……俺じゃ役に立てないのか?」
「役?」
そこじゃないだろうというところでつまづき、通じなさにイライラとしてくる。
「役、役に立つの役」
「あぁ。それが、何?」
「俺じゃ平岡の代わりにはなれないのかって」
「は?」
「芝居の専門的なことなんて何一つわからないから台詞読むって言っても音読レベルしかできないじゃん、俺は。もしかしてお前の貴重な練習時間奪ってた?」
「いやいや、誰もそんなこと言ってないし」
笑いで暁の声は微震していた。
「飛躍しすぎでしょ。迷惑って思ってたら誰が翔真に台詞合わせ頼むの?」
暗に翔真を認める言葉であるのに、幼児をあやしているような響きに聞こえて一つも嬉しくない。
「卒業式の帰りに翔真言ってくれたじゃん。これから先も台詞合わせに付き合ってくれるって。俺、あのときすごく嬉しくて──」
「でもそれ平岡と出会う前だろ」
「はぁ?」
今度こそ嫌そうな顔をされる。
「だってお前、平岡……平岡と会ってからは俺に台詞のこと……」
疲れたように前かがみになるとき、暁が軽く首をひねった。
支離滅裂なことを言っている自覚はあった。平岡に執着し続けているのが見当違いということも。
気がおかしいと思われたのか、関わりたくないと思われたのか。
ちょうどドラマが始まって、それから以降は暁は翔真に話しかけてこなくなった。
物語の内容になんて、全然集中できない。
体勢と目線はテレビを向いているがそれは形式的なもの。
暁と揉めてしまった数分前の反省と、でも結局は何も解決になっていなくて手玉に取られただけなのでは? とむしゃくしゃする感情とが、頭の中で混沌としている。
絡みついて解けないイヤホンとか充電器とかのコードと格闘しているみたいだった。
誰かのせいにしたいが、原因は自分でしかない。
「ねぇ、翔真って平岡くんのこと嫌いでしょ?」
もうわかっているという口ぶりで暁がたずねてきたのは、ガイが単独で映し出される場面のときだった。
俳優中毒(はいゆうちゅうどく) 本郷りさ @moriya_yuka
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