そして四人
「あのねえ、私もねえ、ずっとお家に帰りたいって思ってたよう。でもねえ、きっと、もうお父さんもお母さんも、みんな死んじゃってると思うんだ。私、ずっと沼の中にいたからねえ」
魔物のたどたどしい喋り方は、幼い子どもそのものだった。
「私ねえ、体の右半分、動かないで生まれてきたんだよう。右目も見えんでね。でね、お父さんもお母さんも、働けない子どもはいらないって言ったんよ」
アーサーの心臓が凍り付いた。
この魔物は、子どもは、いらないと言われた。
「だからこの沼に捨てられた。私、いっぱい泣いたよ。なんでか水ん中でも涙は出たし、泣き声も上げられたねえ。したら泣き声聞いて、化け物いっぱい近寄ってきてね。私のこと食おうとしてきたのもいたし、気まぐれに慰めるようなことしたのもいたよ。でも、なんでかな、みんな私と沼とひとつになった」
魔物が生まれる昔話を、三人はただ黙って聞いた。
「んでもね、人だけは近寄ってこなかったんよ。沼の外に声とか足音とかはしたけど、ずうっとずうっと、だあれも沼ん中までは来てくれなくて」
アーサーたちは顔を見合わせる。
「お兄ちゃんが初めてだったんよ、沼ん中まで飛び込んできた人」
半分黒い顔で、魔物はにこりと笑った。
近づくものを引きずり込もうとする魔の沼。水際まで近づいて、迫る黒い水に逃げ出すものはいても、飛び込んだものはいなかったのだろう。
「さすがにあれは、こいつ究極に馬鹿だと思ったね」
「魔物がいなかったとしても、深さも解らない、どれだけ濁っているかもわからない沼に飛び込む馬鹿は、まあいませんよね」
それほど追い込まれていたかと問われれば、もうあの時の気持はわからない。ただ、逃げてなるものかとは思った気がする。
「ものすごおおおおおく久々に、私とおんなじ形をしたものが来てくれたよーって、思ったの。懐かしいなー、人の体、あったかいのかなあ、柔らかいのかなあとか考えたよう」
ずいぶん冷たいところにずっといるからねえ、と小さな肩が震えた。
「したら、お兄ちゃんの目とか、お兄ちゃんを助けようと伸びてきた手とか、その手の人を支えようと踏ん張ってた人の足とか、みんな私のものになっちゃった。どっかで、欲しいなあって思っちゃったかなあ。そういう意味と、違ったんだけどね」
それから考えこむように、魔物はこてんと首を傾けた。
「うん、違うね、目も手も足も、私のものと違うね。あのね、体の右半分がね、帰りたがってたの。沼の外、多分、お兄ちゃん達のところに」
今まで姿を現さなかった沼の魔物。それがここまで出てきたのは、アーサーたちの体の一部が元の場所に帰ろうとしていたから。
「返すね、お目目」
細い指先が、己の右瞼をこじ開ける。
アーサーの、ドレイク家の、金の瞳。
資格を失った、片目を失明した不具の子は次期領主に相応しくないと――。
「……いらない」
魔物の、折れそうに細い腕を掴む。目玉をほじくり出そうとしていた指先が、瞼から離れた。
「でも目ぇないと、お兄ちゃんお家に帰れないんでしょ」
せめて。どうか。右目さえ取り返せば、そう、思い続けていたけれど。
「いいよいいよ、お嬢ちゃん。目ん玉の一個や二個、手足の一本二本、持っていきな」
思い切りよく無茶なことを言って、チャーリーは魔物――少女の傍らにしゃがみこんだ。膝を折った友の頭が、うつむいた視界に入る。
「
チャーリーはブーツ越し、軋む音を立てる木と鋼でできた足を撫でた。巻き毛のつむじばかりが見えて、彼がどんな顔をしているかアーサーにはわからない。
「今更返せなんて、言わねえよ」
それでも屈託の無い口ぶりで、チャーリーは言った。
「人の目や腕まで勝手にあげないでくれます?」
少女とチャーリーに合わせるように、ロイドは身を屈めた。失われた右腕を隠す外套が揺れる。
「だって小さい子が目ん玉ほじくったり、手足切りつけたりするのなんて見たかねえじゃん」
「それは同意します」
子どもを傷つけてまで。
自分は――父は、そうまでして何を守りたいのだろう。
「僕もふたつは無理ですが、ひとつはお譲りしましょう」
残された左腕を躊躇いがちに伸ばして、ロイドは少女の右腕に触れる。それは労りのようにも、自分の一部を名残惜しんでいるようにも見えた。
「でもさ、目も腕も足も、お兄ちゃんたちと一緒にいたがってるよ。私、お兄ちゃん達のそばを離れられなくなっちゃうよう」
「あー、そうか。だからお嬢ちゃん、沼からここまで来たんだったっけなあ」
それは呪いのようでもあり。
歪で奇妙な、
「魔物言われてるし、私が一緒にいたら、お兄ちゃんたちの邪魔ね。したらやっぱり、帰れなくなるよねえ、きっと」
帰れなくても構わない。
そう言おうとして、唇はわななくだけだった。
覚悟するには、怖い。
こちらから捨てるには、踏ん切るには、まだ自分は弱く、迷いはするけれど。
「アーサー?!」
アーサーはナイフを振り上げた。
声も上げず、抵抗もしない少女に向かって翻した刃。
ざくりと、断ち切る音が響く。
少女の背後で、切断された髪が跳ねた。黒い沼から少女を繋ぎ止めていたそれは、わずかの間、地面の上で暴れた。黒い水を撒き散らしながら蛇のように跳ね回った、少女の、魔物の一部。最後の最後、蛇が鎌首をもたげるような形になると、目をぱちくりさせた少女に向かって首を傾けた――ような気がした。まるで、行くのか、と問うように。
「一緒に、行くか」
だから聞いた。言葉を持つのか持たぬかわからぬ、魔物の代わりに。
少女はこくりと頷いた。
この子を連れては、確かに家には帰れまい。
アーサーには、父の許可なく来客ひとり呼ぶことさえ許されていないから。
それでも、許されなくとも。迷いも恐れもあるけれど。
自分で選んで、いいはずだ。
「それって強制的に、俺らも道連れってことじゃん?」
口では呆れたように、表情は不敵に、チャーリーは言った。
「不満なら帰っても構わないですよ」
アーサーが答える前にロイドが言う。その口ぶりには言葉と裏腹、非難も嫌味もなく、ただ二人なりの信頼のようなものがあった。
「右足には呼ばれるかもしれませんけど、まあ、どうにでもして。チャーリーは家も大事でしょうし」
「家なんざ、姉貴と婿殿がなんかいい感じに回してくれるだろうから構わんわ」
チャーリーはにっと笑う。
「アーサーと嬢ちゃんと一緒に行った方が面白そうだ」
「僕もアーサー個人に仕えてるつもりですし。ドレイク家でなく、ね」
片足を失い、片腕を失い、それでもなお、二人の友は。
「……ありがとう」
絞り出すように言って、アーサーは深く頭を下げた。
言葉はどれだけあっても足りない。許されるなら二人を抱き締めたいと思うほど。だけど父と抱擁すらした事の無い自分では体が動かず、その、代わりとでも言うように。
「じゃあ、みんな一緒ね!」
体当たりするかのごとく、少女はアーサーたちに飛びついた。子どもの短い腕で三人纏めて抱きしめようと。少女の体、右半分が、本来あった場所に帰ろうとするかのように。
「よしよし、四人寄り添いあって行こうなあ。さて、これからどこへ行くかね。腕利きの技師のいる町は幾つか調べたから、行きたいんだよな。義体職人探しててさ」
「労働者の流入が多い都会、移住者に人気の町、いくつかあたってみましょうか」
「俺は領内ばかり目を向けていたから……二人の意見を色々聞いて、考えたい」
アーサーたちの会話をくっついたまま聞いていた少女の背で、切られた髪が不揃いに揺れる。
髪と一緒に、きっと多くの繋がりをアーサーは断ち切った。
けれども新たに結ばれたものもあるだろう。見上げてくる金の右目を見つめながら、アーサーはそんなことを思った。
アーサー・ドレイクの縁切り いいの すけこ @sukeko
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