魔物、現る

 アーサーは黙って、チャーリーはいちいちやかましく、ロイドはそれに逐一突っ込んで。

 そうして歩くことしばし、獣道の先から湿った匂いが漂ってきた。淀んだ臭気が鼻先まで届く。

 生い茂る草木の向こうに、まだ沼は見えない。森に入ってからだいぶ時間が経過していたものの、前回来た時の記憶と照らし合わせても、まだもう少しかかりそうなのに。

(ずいぶん、匂いが近い)

 腐臭にも似た、濃い水の匂い。肌にも湿気がまとわりつく。

 ――びしゃ。

 水の撥ねる音がした。

 ――びしゃ、びしゃ、ずる。

「……なんか、近くね?」

 水気を含んだ、重たい何かを引きずるような音。

 ――べしゃ。

「来てますね」

 沼はまだ遠い。けれどもそれは、そこまで来ている。

「沼の魔物」


 黒い水を引きずって、魔物は現れた。

 予想より早い登場にアーサーは身構える。

「魔物って……これ?」

 同じく身構えながらも、チャーリーが困惑した声を上げた。

 前回、暴れ回る黒い水に襲われて、魔物はそういう形をした生き物なのかと考えた。一方で、沼の中に水を操る魔物が棲んでいる可能性についても。

「わあ」

 魔物は発声した。

 甘く、高い音で。

「子ども……」

 常に冷静なロイドの声が上擦っている。 

 沼の魔物は、人間の少女の姿をしていた。

 歳の頃はとおに満たないくらいか。地面に引きずった長い髪は尾のようで、少女の背後にどこまでも続いている。黒い水を吸ったそれは筆のごとく、泥交じりの黒い跡を引いていた。体の右半分は、インクをかぶったように真っ黒で。

 その半分黒い顔に、金の光がきらりと瞬いた。

 アーサーは弾かれたように飛び出す。

「返せ!」

 魔物の細い肩を鷲掴みにして、勢いに飛び散る黒い水を顔に浴びながらアーサーは叫んだ。

「俺の右目を返せ!」


 少女の顔をした魔物の右目は、かつてアーサーの右目だったもの。

 髪の色も左目の色も、アーサーは父と同じものを受け継がなかった。

 右目だけが、父と同じ色をしていた。

 黒や茶の色素を持って生まれる家系の中で、選ばれた者だけが金色の瞳を輝かせて生まれるドレイク家。

 そんなものは人体の設計図が決めたものでしかないと、チャーリーは言った。神様の気まぐれのようなものだと、ロイドは言った。

 色などで人の価値は決まらないと、二人は口を揃えて断言した。

 それでも、父と揃いの金の瞳だけが。

「これ、お兄ちゃんのお目目?」

 魔物であるのが嘘のように、可愛らしい声が言った。

「目だけじゃない。右腕はロイドのもの、右足はチャーリーのものだ」

 簡素な衣服からむき出した、魔物の右腕と右足。

 大きさこそ子どもの身の丈に合っているが。

 世話を焼いてくれた右手、その手首にあったほくろ。納屋の屋根を歩いて落ちた時に傷つけた、右脛の傷跡。

 それは間違いなく、二人が奪われたものだった。


「それがないと、俺は帰れない」

 あの家には。

 父の元には。

 アーサーは腰のナイフに手を伸ばした。魔物生来のものだろう茶の左目と、満月のような金色の右目がまあるくアーサーを見上げている。

「返してもらう」

 アーサーはナイフを振り上げた。

「アーサー!」

 刃を握った手が、止まる。

 叫んだのはチャーリーだった。

「てめえ、いい加減にしろや。頭冷やせ」

「……魔物を切りつけて何が悪い」

「ちげーよ、それはそれ。俺がキレてんのは、お前がナイフを振るう理由が、いつまでも親父さんのためだってことにだ」

 ナイフを握った右腕を掴んでいるロイドが、ゆっくりと首を振った。

「領主として領地と領民を守る旦那様を、僕は尊敬します。……けれど一人の父親としては、敬服できない」

 混乱が、波のように押し寄せる。

 父のため、ドレイク家のため。

 それはアーサーの絶対だった。

「だって右目、金の、目は、資格で」

 声が震える。まるで幼子のような頼りなさで。

「親子であることに、資格があってたまるかよ」

 チャーリーは吐き捨てるように言って、続けた。


「俺はあのお人が、沼の魔物をどうにかしたいと常々言ってたのを聞いてるぜ。パーティで、倶楽部で、狩猟会で。全ての場にいた訳じゃないが、口癖みたいに言うもんだから皆が聞いてる。誰か、度胸試しに入った馬鹿者どもでもいいから、ついでに仕留めてくれないかって」

 それはアーサーだって聞いている。

 魔の沼問題は領地管理の悩みの種として、度々議題として上がっていたから。問題は三代に渡って先送りにされ、有効な討伐計画も立てられず、誰も危険を冒す勇気を持たず。

 誰一人、魔物と戦おうという強き者はいない。

 そう、父が嘆くから。

「孝行息子は、に魔物討伐に向かって、結果、片目を落とすほどの重傷を負った」

 そう、自ら決めて。だから全ては自らの行いが招いたもの。

「魔物討伐は大失敗。魔物退治など無謀なことを、友や従者まで巻き込んで、取り返しのつかない大怪我をして――そうさせたのは、誰だ?」

 俺だ、とアーサーは口の中で言った。チャーリーは盛大に舌を打つ。


「違うね。親父さん――お前のクソ親父は、息子を自分の意図通りに動かした。お前にそのつもりがなかったとしても、言葉で、態度で、目で、そうさせた」

 父の言葉には力がある。振舞いにも視線にも。

 刺すような言葉も、翻弄するような振舞いも、淡い希望や深い失望を滲ませた眼差しも、アーサーを動かすと知っていた。

「そして失敗したと見るや、愚か者が勝手にしたことと断じてアーサーを切り捨てやがったんだ」

「それが、獅子が我が子を突き落とすことと同様だと思っているのだとしても。奮起させるための振る舞いなのだとしても。我が子にすることだとは思えません」

 呆然とする。

 まるで足元が崩れ落ちるようだった。

「お兄ちゃん、おうち帰りたいの?」

 まるで迷子に問いかけるように。惑うアーサーに魔物の子どもが言った。








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