チャーリーとロイド、共にゆく
地方領主ドレイク家の一人息子、アーサー・ドレイクは、度胸試しに失敗した。
この不名誉な噂は、事が起きた夏から冬までの間、領内のあちこちでささやかれた。
領内を囲む森のはずれに沼地がある。
黒い水で満たされているその沼には、魔物が棲むという。
アーサーの父から三代は遡った頃のこと。
かつては森の動物たちが喉を潤し、水浴びをしたり泳いだりもしたという沼から、いつしか獣たちが姿を消した。
ある時、森林浴にやってきた――それぐらいに、昔はのどかな森だった――令嬢が、鳥の歌声に耳を傾けていたところ。
黒い水が伸びてきて、枝に止まる鳥を沼の中に引きずり込むのを目撃したという。
卒倒した令嬢を慌てて連れ帰った従者から話を聞いた猟師が、そんな馬鹿なと沼地へと踏み入れば、やはり青い顔をして帰ってきて、言った。
黒い沼には魔物がいる、と。
おかしな嘘を吹聴するなと激怒した当時の領主も、自ら確かめに行った末に恐ろしい目に遭った。
黒い水が何かの生き物のようにうねり、体を絡め取ろうとしたのだと。沼に引きずり込まれる寸前だったと身震いした領主は、以来、沼地への立ち入りを禁じたのだった。
そうして沼には人も獣も、何者も近づかなくなった――筈なのだが。
時に沼地に、不逞の輩が入り込むようになったのだ。
獣すら拒む地ゆえに、密猟者も寄り付かない魔の沼。暗い森に時折紛れ込んだのは、怖いもの知らずで享楽的な、愚か者どもだった。
本当に沼には魔物がいるのか、いたら立ち向かえるか。魔物と対峙する恐怖に打ち勝てるか。
沼の魔物相手に、度胸試し。
領地に住む、不道徳な、特に若者が好む悪ふざけ。
刺激に飢えた若者たちには、噂が出回った初期ほど流行した遊びだった。けれども事実、度胸試しを行った者たちは、沼から伸びる黒い水に相次いで遭遇する。命からがら逃げ出すものが続出したものだから、危険な遊びに興じるものはいなくなった。
今や禁足の地で度胸を試す者など、余程の世間知らずか命知らずか、大馬鹿者だけと言われ――。
「なあーんで再度、大馬鹿な真似するかねえ、アーサー坊ちゃんはさあ」
闇は濃く、重い。きっと黒い沼も闇を湛えながら、愚か者たちを待ち構えていることだろう。
「アーサーの気持ちは察しますけども」
夜の帳に包まれた森は、静寂が支配していた。獣や虫の鳴き声一つせず、無風では木々のざわめきすら聞こえない。終わりのない暗がりには、自分たちの会話ばかりが虚しく響いた。
「まだ体も本調子とは言えないでしょう」
「その視界じゃ、つらかろうによ」
背後からは二人分の声と足音。アーサーは歩みを止めず答えた。
「だからお前たちも、来なくて良いと言っただろう」
振り返る余裕はなかった。左目だけで闇の中を歩くのは神経を使うから。
包帯が外れた右目には、黒い眼帯。
最初は煩わしいことこの上なかった右目の蓋も、今では肌に馴染んだ。同時にそれなりに気遣っていた身なりも、療養期間を経てどうでも良くなってきてしまった。乱れた黒髪が眼帯にかかる。
「今のあなたを、一人にできるとでも?」
アーサーは足を止めた。湿った落ち葉と泥が、ぐしゃりと音を立てる。背後を見遣れば、がむしゃらに歩いていたアーサーに遅れることなくついてきた者が一人。
「お前ら、歩くの早いんだが?」
やや遅れて、やっと追いついたと息を吐いた者が一人。
「わあ、おっかない顔」
明るい亜麻色をした、巻いた髪。場違いなほど陽の気を漂わせて、級友は軽口を叩いた。
「ますます目つきが悪くなってますよ」
対して真面目な顔つきをして、歳の近い従者は言う。きちんと整えた髪は、それはそれで場違いかもしれない。
「人相は生まれつきだし、目つきが悪くなるのは左目だけで見ているからだ」
「マジ分析すんなや堅物」
「チャーリー、ロイド」
「はあい」
「なんですか」
律儀に返事をした友に、アーサーはため息で応えた。
「どうしてついて来た。今度は怪我では済まないかもしれないぞ」
眼帯を押さえる。沼の魔物に傷つけられた右目は、アーサーから視力とともに父の信頼を奪っていった。
「お前についてくくらいしか、今の俺にやることねえもん」
チャーリーの、膝まである長いブーツは泥に汚れている。道が悪い中、文句も減らず口も叩きながらも、チャーリーはここまでアーサーに着いてきた。
「僕もアーサーの世話焼くくらいしか、取り柄ないですし」
従者であり友として幼い頃からそばに居たロイドも、当たり前のように言う。上半身をすっかりと覆う外套を纏っていても、冬の森は寒いだろうに。
「……本当に、もう何の保証もできないぞ」
「上等」
「自分で決めましたから」
そこになんの打算もないのなら、彼らは本当に馬鹿者なのかもしれない。それでも二人をも一括りに、愚か者呼ばわりされた悔しさは忘れようもなかった。
「大体さ、度胸試しなんて俺らガキの頃から散々やったぜ? 納屋の屋根の上を歩くとか、学校の教室を窓伝いに移動するとか」
「その度、痛い目見たりド叱られたり隠蔽したりしてましたね」
「馬っ鹿、武勇伝にしてたわ」
「調子に乗らないで下さい」
「……調子に乗ったつもりなどない」
チャーリーを窘めたロイドの言葉が、アーサーにも突き刺さる。
父の領地――いずれは、己が継ぐはずだった――に、魔物がいるというのなら、排除すべきだと思ったのだ。沼地へ立入ることを固く禁じられていても、度胸試しに興じる馬鹿者達と同類と見なされても。
「父様の邪魔になるなら、魔物ぐらい討ち取ってみせる」
「……お前さあ」
心底呆れた口ぶりでチャーリーが言った。
呆れたくもなるだろう。アーサーの無謀な行動を止めようと、何度も説得を試みた友たち。聞く耳を持たず森へ行ったアーサーに、結局は着いてきてくれた、その結果。
「これ以上、お前たちに何ものも失わせたくない」
アーサーが右目を奪われたのと同様に。
チャーリーとロイドも、己の一部を失ったのだった。
「やっぱりこれ以上は、お前たちはついてこなくていい。二人が奪われたものは、俺が取り返してみせる」
「カッコつけてんじゃねーや、ばーか」
端正な顔を歪めて、チャーリーが言い放つ。
「俺を臆病者にしてくれんな」
呆れとも怒りともつかない表情には、暴言を吐きながらも確かに彼なりの信念のようなものが垣間見えた。
「一人で背負い込もうとするのは、アーサーの悪い癖です」
ロイドの苦言もいつものことだった。
アーサーに巻き込まれて、取り返しのつかない結果になってもなお、彼らはいつものままで。
あまりにいたたまれなくて、アーサーは顔を背けるように前を向いて再び歩き始めた。
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