第2話 異界からやってきた鬼神・紅蓮 ②

 暮れなずむ夕陽がそらを茜に染め、真っ黒に塗りつぶされた東寺が浮かぶ。

 昼から夜になるこのとき――、異界のモノに怯える人の足は自然と速くなる。

 内裏を辞した公卿や殿上人は牛車に乗り込むと、家路を急ぐ。

 しかしこういったときこそ、内裏に忍び込もうと企む不埒ふらちな輩はいるもので、以前にも台盤所だいばんどころ(女房たちの詰め所)から鏡が盗まれ、それが王都内の市で見つかるという事件が起きていた。

 

「今夜は……、出ないといいですねぇ? 中将さま」

 大内裏・宜陽殿の左近衛陣を出たふたりの武官は、宿直とのいに就くべく内裏へ向かっていた。

 ひとりは五位の位階を示す濃緋のうひの闕腋袍、もうひとりは従四位下以上の位階の者が纏う黒の闕腋袍で、ともに背に矢と箙 えびら(矢をいれる容器)を背負っていた。

 話しかけてきた藤原直之はまだ十九歳の武官だが、位は従五位、左近衛少将に就いている。

「怖いのか?」

 並んで歩く征之は彼を一瞥して、視線を前に戻す。

 この若き少将がなにを恐れているのか、ある程度は察しが付く。

 内裏を守る近衛府の武官が、賊ぐらいで怖じていてはどうしようもないが、賊でないことは話し方から察せられる。

「そりゃあ、怖いですよ。賊ならまだしも――、だけは侵入の防ぎようがありません」

 直之の答えは、やはり――、である。

「たとえ侵入されても、上は近衛府おれたちを責めたりせんさ」

 征之はそう苦笑して、空を仰ぐ。

 つがいだろうか。二匹の秋茜あきあかね(赤とんぼ)が、視界を横切り、西へ向かっていく。

 このところ、貴族の邸に現れる白い面の怪異。

 それは内裏にも現れ、その恐怖のあまりに参内できなくなった女房や公卿がいる。

 確かに直之の言葉通り、物の怪相手では侵入は防ぎようがない。


 宿直は亥の刻・子の刻は左近衛府が、丑の刻・寅の刻は右近衛府の担当であった。

 手燭を手に、闇に包まれた内裏を見回る。

 七殿五舎に入ると、白い直衣のうしに緋袴の人物が渡殿を進んでいるのが見えた。その影は数人を伴い、梅壺こと凝華舎へ向かっていく。

 この大内裏で、白い直衣に緋袴の人物といえばひとりしかいない。

 今上帝である。

「今宵は、梅壺へのお渡りだったようですね?」

 直之がいった。

 梅壺には中宮・藤原璋子がいる。

 帝も二十二歳と若いが、この帝より璋子は三歳若い。父親である左大臣にして北院当主・良房は強引で野心家なところがあるが、彼女は逆だ。

 控えめで温和、ゆえにどうしても弘徽殿の女御・藤原茂子と比較され、彼女で果たして国母(帝の母)が務まるのかと思われているらしい。


 ――まずいな……。


 征之は、額に皺を刻む。

 帝が寵愛の后の元に通うのはよいことだが、白い面がもし今宵現れたら、帝にまで累が及ぶ。

 せめて今宵だけは、内裏でなにも起きぬことを願うしかなかった。

  

                 ◆


 主上おかみ(帝への呼び名)が今宵は、梅壺にお渡りになるとのこと――。


 中宮・璋子に仕える女房・伊勢三位いせさんみ(女房名+夫の官位)がその報せを受けたのは、ひるのことであった。

 濃紅こいくれない濃黄のうきの襲に唐衣裳を纏い、彼女は我が身のように心が躍った。

 璋子は決して美女ではないというわけではないが、弘徽殿の女御に比べれば些か迫力に欠ける。北院の財と力があるものの、いつ権力者の座から落ちるかわからぬのが内裏の怖い所である。

 ――中宮さまにはなんとしても、東宮さまを産んでいただかねば……。

 伊勢三位は障子が纏う衣のなかで、もっとも映える襲を用意し、彼女の髪を丁寧に梳いた。

「今宵の中宮さまに、かの月の姫も嫉妬遊ばしましょう」

 世の殿方を夢中にしたという輝夜姫かぐやひめを例に挙げ、伊勢三位は璋子を賛美した。

 帝と璋子が塗籠の寝所に入るのを見届けて、伊勢三位は凝華舎の簀子に出て天を見上げる。

 そのとき秋に珍しい生暖かい風が吹き、彼女は目を見開いた。

 月の代わりに見えたもの――。

 

「あ……、ぁ」

 壺庭に、白い面が浮いている。

 なにかをしてくるでもなく、浮かんでいるだけのそれから目が逸らせない。

『背の君(夫)を惑わすものは許さぬ』

 伊勢三位の最後の記憶は、そう言った白い面の言葉だった。


           ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆


 宿直番がそろそろ右近衛府へ引き継がれる頃――、征之は梅壺の異変に気づいた。

 女房たちが、血相を変えていて動いていたからだ。

 聞けば中宮が倒れたという。

「なにがあったのです? 女房どの」

 征之は御簾奥にいる女房に問いかけた。

「伊勢三位さまが、突然亡くなられたのです……」

「まさか、病で?」

「そのようなことは決して……! ここは内裏、穢を生じることはいたしませぬ」

 女房は必死に否定した。

 

 内裏で死を迎えられるのは帝だけである。

 この禁を犯したがために、譲位が行われたという経緯が過去にある。

 先々帝の寵妃、梅壺の女御の死である。

 しかも、先々帝がこの禁を犯した。

 病身の梅壺の女御を里にさがらせるべきを、先々帝は別れを惜しみ、認めようとはしなかった。これにより梅壺の女御は内裏で亡くなるというけがれが生じ、先々帝は災異を招くことを危惧する朝臣によって、譲位を勧められるに至った。

 

主上おかみは、清涼殿にお戻りに?」

「はい……。ですがまたも側仕えの女房を失われた中宮さまを主上おかみは、たいそうご心配の様子」

 女房の突然死――、なにがあったのか考えられるのは。


 ――白い面か……。


 聞けば亡くなった伊勢三位の死相は、数日前に征之が偶然駆けつけた、藤原実近邸の子息とまったく同じだった。違うのは、伊勢三位の遺体は、植物のつるが絡まった状態で中宮によって発見されたらしい。

 凝華舎の壺庭に、蔓性の植物は植えられていない。

 ならばその蔓は、何処から生えてきたのか。

 しかしこの事件が翌日に明らかになると、これまで黙っていた西院派の口を開かせた。


「こうも梅壺で怪異が起きますと、問題ですな?」

「左様。主上も中宮さまもまだお若いとはいえ、中宮さまが入内されて二年、未だご懐妊の兆しがござらぬ。このままお子ができぬとあらば、廃后もありえる」

「となれば、左大臣さまもどうなるのやら」

「我らが次につく相手を、見極めておかねば」


 人の不幸を出世の機会とする彼らに、近くで聞いていた征之は呆れるしかなかった。

 その左大臣・藤原頼房は、朝から不機嫌そうな顔をしていた。

 征之にとって叔父であるこの男は、黒袍の公卿に混じって、禁色きんじき濃紫こむらさき雑袍ざつぽう(直衣)であるためよく目立つ。

 禁色の直衣で参内できるのは、帝に許された高位の特権である。


 ――これだから俺は、嫌なんだ……。


 北院と南院の二家の血を引き、嫡流藤原家・南院の嫡男として生まれた征之は、父・露親のように公卿になりたいとは思っていない。

 いずれは南院を継がねばならないとしても、今のままで充分と思っている。

 足の引っ張り合いは御免で、まだ武官として、体を動かしていたほうがいい。

 ただどんなに弓の腕を磨いても、実戦となる機会は滅多にないが。



 彼が朱雀門を出たのは寅の四刻しこく(午後五時)――、家僕の三郎を先に邸に帰らせて、征之は朱雀大路を東へ折れた。本来なら南院家へは朱雀大路を中程まで南下して、東に折れるのだが、この日はなぜか二条大路に進んだ。

 錦繍に染まり始めた王都――、これからもっと鮮やかに彩られことだろう。

 しかしそんな都に、得体のしれぬモノが闊歩し始めている。

 白い面と――。


 征之を乗せた馬が、歩みを止めた。

 動物の勘は優れているというが、征之もそれに気がついた。

 以前に見た白髪に金色の瞳をした鬼が、そこにいた。

「やはりお前――、俺が視えるようだな?」

 鬼はそう言うと、にぃっと笑った。

 やはり、かなの大男である。

 征之が見上げるほどの背丈があり、髪は老いて白くなったものではないようだ。

 額と腕に金の輪を嵌め、逞しい腕には領巾を絡ませ、鬼にしては精悍な顔をしている。

「――だからなんだ?」

「待っていたんだよ。俺が視える奴を」

「あいにく、鬼に喰われる気はない」

「は?」

 何故か鬼が瞠目している。

「まさか、お前か? 白い面を招いているのは……」

 征之は帯刀していた剣に手をかけ、鬼を睥睨した。

「ちょ、ちょっと待て! 喰うって誰が!? 冗談じゃない! どうして俺が人間を喰らう? そりゃあ、こんな成りをしているが、喰わねぇよ! 俺は鬼じゃなく、鬼神だ」

 両手を腰に当てて胸を張る相手に、征之の警戒心は消えて、半眼になった。

「……最近の鬼は、冗談もいうのか?」

 征之の言葉に、鬼の目が据わった。

「お前なぁ……。言っておくが白い面を招いたのは俺じゃないぞ。俺は追っていた方だ。そいつを狩るためにな」

 鬼は名を紅蓮ぐれんと名乗り、これまでの経緯を語るのであった。

 

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