第7話 鵺の鳴く夜
「今度は、
辰の刻を過ぎた清涼殿・
「ほんと、物騒になったこと……」
殿上の間はは清涼殿の
噂話をしているのは、台所盤にいる女房たちだろう。
右大弁といえば、兵部省・刑部省などの四省を管轄する、右弁官局の長である。近衛府同様左右にいるが、両局とも、諸省・諸国から舞い込んでくる庶務を処理して納言に上申し、宣旨や
まさか話を聞かれているとも知らず、女房たちのかしましい声は筒抜けで、内裏に噂が広がるのは当然である。ただ人から人へ渡り歩いた噂の中には、誇張された挙げ句に
征之はやれやれと溜め息をつき、殿上の間を後にした。
その足取りはいつもより重く、紫宸殿南庭まで出るのに少々遅くなった。
自身の身体に鬼が憑いているうえに、怪異を探ってほしいと帝からも依頼され、さらには憑いている鬼のせいで、物の怪退治までしなくてはならない。
さらに南院の末を背負う嫡男として、邸では乳母が頻りに縁談を勧めてくる。
征之にとって、これが大の苦手なのだ。
そもそも、和歌が詠めない。
友人にして同じ左近衛中将の源泰時に「お前は恋に疎い」と嘆かれるが、余計なお世話である。
「――中将さま」
紫宸殿正面、
左近衛少将、藤原直之である。
「今日はお前が、見回りか? 直之」
「
直之はそういって、苦笑した。
大内裏を警備するのは近衛府の他に兵衛府・衛門府などいるが、左右近衛府の管轄は陰明門・宣陽門から内側(内裏内)である。紫宸殿南庭は左右近衛陣から近く、紫宸殿南庭の東側にある門・日華門の北は左近衛陣がある宣陽殿である。
物忌みならば仕方ないが、左近衛大将・
おそらく昨夜は、意中の女性のもとへ通っていたのだろう。
確か現在の相手は、綾小路の権中納言の大姫だと、征之は聞いている。
だが、直之によれば、泰時の相手は他の姫に代わっていた。
「なんでも、大物の恋敵がおられたそうで……」
「大物の恋敵……?」
征之は前髪を掻き上げつつ、瞠目した。
左近衛陣に入り、文机の前に座してまもなく――。
「聞いてくれ!! 征之」
その源泰時が陣に入ってくるや、征之にそう詰め寄った。
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花のさかりは ひとつなりけり
自慢の和歌を引っ提げて、権中納言・
だが御簾前にいた女房が、姫の心は他の殿方に移ったと告げた。
誰かが、横から入ってきたらしい。
鳶に油揚げをさらわれるとは、まさにこのことだろう。
「それで、誰だったんだ? その姫の心を浚ったのは」
文机に片肘をつき、頬杖をついた征之は、その鳶が誰だったのか泰時に聞いた。
「頭中将・藤原兼近どのだよ」
なるほど、大物である。
かつての摂関家・西院の嫡男にして、帝の近習を主とする蔵人頭と、右近衛中将を兼ねる彼の異名は、匂う君という。
内裏女房たちに人気で、彼女たちの噂いわく、血筋も見えも良く、衣に焚きしめられている薫りは女心を刺激するらしい。
「泰時――、いきなり大声で俺に訴えた理由はそれか……?」
恋とは無縁の自分に訴えられても、である。
冬になれば底冷えが続く王都である。いまは赤く染まっている木々もやがて葉を落とし、その枝に雪を抱くことだろう。
「右大弁さまの邸宅に、賊が入ったという噂、聞いているか?」
「ああ。だが例の賊は討伐されたはずだ」
先月まで王都を荒らしていた盗賊がいたが、朝廷が派遣した
「それが今度の賊は違うらしい」
「どう違うと?」
「その賊が現れる夜に限って、鵺の鳴き声が聞こえるらしい」
あくびをしかけていた征之は、あらためて泰時をみた。
鵺は猿の顔、狸の胴体、前後の肢は虎、尾は蛇をしているとう物の怪で、実際にその姿を見たものはいない。ただ「ひょうひょう」と、大変に気味の悪い声で鳴くという。
さっそく怪異が絡んできた話に、征之は天を仰ぎたくなった。
おそらくこの話を、彼に憑いている鬼神・紅蓮は、嬉々として聞いていることだろう。
しかし実際に人を襲っているのは人間で、鬼でも物の怪ではない。
賊を捕まえるため、検非違使がまた忙しくなるだけだ。
するとまもなく下級武官がやってきて、左近衛大将・藤原保典が泰時を呼んでいるという。
これに当の泰時が、渋面になった。
「呼ばれる心当たりがあるのか? 泰時」
「……実は一昨日は宿直だったのだが、用があってな。他のものに代わってもらったのだ。おそらくそれだ……」
聞く限りは、渋るようなものではない。
「まさかと思うが……」
絡んだ視線は、泰時のほうから外される。どうやら、そのまさかのようだ。
要するにその夜も、何処ぞの姫のもとに通っていたようだ。仕事より恋を優先させればそれは呼び出されるというものである。
泰時が左近衛陣を退室して、征之ひとりになった。
正確には、人間ひとりに。
「鵺の鳴く夜に盗賊とは、そいつらも人間かどうかも疑わしいな」
征之の前に顕現した鬼神・紅蓮が、両腕を組んで座った。
相変わらず、征之以外に姿が視えないとあって、堂々と現れる。
「勝手にことを大きくするな」
「お前も、同じことを思っているだろうに。ま、こっちとしては向こうから出てきてくれるお陰で探す手間が省けるけどな」
確かに、盗賊が人なのか征之も疑っている。
あれから白い面が現れたという話は聞かないが、王都が別の意味で騒がしいのは困りものである。
◆
夜になり、王都は雨になった。
この男もまたこの夜は、嵯峨野に美しい姫がいると噂を聞くや、垣間見ようと外に出ていた。しかし彼が乗る馬の足は噂の相手の元ではなく、嵯峨野に近い一軒の庵だった。
途中で雨に降られたせいもあるのだが、嵯峨野と聞いてある人物を思い出したこともある。
「――すまないな。
男の突然の訪問に、庵の主・祥慶は暖かく迎え入れた。
年は二十歳後半の、尼削ぎをした美しい尼君である。
「いいえ。お困りの方を助けるのは、当然のこと。それに、頭中将さまなら尚の事」
頭中将・藤原兼近は雨で濡れた直衣を彼女に渡し、扇を開いた。
「おや、いいのかな? そのようなことを言って」
落飾した身とは言え、祥慶は今でも美人だ。
彼女は傍流藤原家の一つに生まれながら、入内の話もあったという。そんな彼女に夢中になった公達は多く、兼近もそのひとりで、熱心に通っていたのは兼近である。
ただかの姫は、いきなり髪を下ろしてしまったが。
「頭中将さまは節度をわかっておられますゆえ」
相変わらずつれない態度の彼女に、兼近は食い下がる。
「しかし世の賊はそうはいくまい。誰ぞ雇ったほうがいい」
「この邸に盗るものはございませぬ」
これも簡単に躱され、兼近は嘆息した。
この恋は、もう諦めねばなるまい。
「わたしの言っていることはそういう意味じゃないんだけどね。
永遠に咲き続ける花という意味の、常花。
かつての想い人である彼女に、もっとも相応しい名である。
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