第8話 鬼憑き男の恋愛事情


 晩秋の庭園――、昼間でも薄く霞がかかったような秋の陽射しが、庭をしっとりと包み、紅葉した楓やとちの木が、風に揺れながら美しい色を浮かび上がらせていた。

 庭に設えられた石灯籠の周りでは夏草が枯れ、萩や桔梗がさりげなく咲き残り、池の水面に浮かんだ紅や黄に染まった葉が、その水面で波紋を広げている。

 そんな庭園で人々の笑い合う声と、管弦の音が混ざり合う。

 藤原北院家――、左大臣・藤原頼房の邸である。

 広大な庭では、歌会と宴の最中であった。

 招かれている者はほとんどが、北院派と呼ばれる公卿である。

 とりわけ目立っていたのは、邸の女房たちをはべらせているひとりの公達だ。


「秋風に 舞い落ちる葉の ひとひらを つかまえし夜の 寂しさよけれ」

「お見事な和歌うたでございます。式部卿しきぶきようの宮さま」

 彼が詠んだ和歌うたを、女房のひとりが賛美する。

 式部卿の宮は、先々帝の皇子である。

 第一の皇子として生まれるも、母后の実家が身分が引くかったこと、一年後に中宮が皇子を産み、彼は親王宣下の後に臣籍となった。

 今上帝の異母兄である彼は、頭中将・藤原兼近と並ぶ色男だ。

「わたしの和歌など、咲き誇る花々の前ではくすんでしまうよ」

「まぁ」

 宮が何を花にたとえたのかわかったのか、女房たちは恥ずかしげに、開いた衵扇で顔を隠す。

「こちらにおられましたか」

 式部卿の宮が顔を上げると、ひとりの公卿が立っていた。

 この邸の主、藤原頼房である。 

「やぁ、左大臣。そなたも、花を愛でに来たのかい?」

「我が二の姫が、琴を披露したいと申しております。対の屋まで足をお運びいただけると、姫が喜びまする」

 頼房はそう言う。

「そなたに、もうひとり姫がいるとは知らなかったよ」

 頼房は北の方との間に嫡男・頼綱よりつな、今上帝の中宮となった璋子がいるが、もうひとり子どもがいたとは初耳である。

 どうやら妾が産んだ姫らしい。

「彼女ではなく、であろう? 左大臣」

 姫を式部卿の宮に添わせたいという頼房の思惑が垣間見え、彼は開いた蝙蝠扇越しに目を細めた。だがこれは、頼房には聞こえていなかったようだ。

「なにか言われましたか? 式部卿」

「いや、なんでもない」

 頼房の登場で和歌うたを詠む気も失せた式部卿の宮は、二の姫がいるという対の屋へ向かうことにした。

 その足が、数歩進んで止まる。

 いまはすっかり淋しくなった桜の下、ひとりの公達が渋面で酒坏を口に運んでいる。

 薄く縹を透かせた白の狩衣を纏い、血筋もしっかりとしており、精悍な面立ちをした青年なのだが。

 

「この宴には公卿の姫も招かれているというに、ここには花は咲かないのかい? 征之」

 式部卿の宮に問われた征之は不愉快そうな顔そのままに、言った。 

「……鬼憑きといわれている男の、相手をするような女人はいませんよ」

 鬼憑きの中将――、もはや定着しつつあるこの噂に、縁談が遠のいたのは間違いないだろう。いつ物の怪が現れるかわからず、それでも男の妻になりたいという物好きがいれば別だが。

「だからと、いつまでも独り身でいるわけにもいくまい? 和歌うたのほうは、すこしは上達したのかい?」

「いえ、まったく」

 あっさり否定され、式部卿の宮はやれやれと嘆息したのだった。

  

                ◆


 征之が叔父である頼房の邸、北院家を訪ねていたのは、頼房が南院の末を危惧したためだ。頼房の異母弟が南院家に婿に入り、征之が生まれたお陰で嫡流藤原家から陥落することはなかったとはいえ、征之はいまだ独り身。しかも、出世欲もない。

 この宴で目を肥やせ――、そう直接言われたのが数日前のことだ。

 頼房は二の姫を、征之にあてがうつもりだったらしいが、征之はこれを断った。

 従兄妹とはいえ、顔も性格も知らぬ相手である。

 周りがこの男に嘆いているのは、欲のなさだけではない。

 貴族子弟ならば身に付けねばならぬ教養の和歌を、もっとも苦手としている点だ。

 和歌のやり取りが必須の恋愛において、これでは顔や血筋が良くても相手にすらされない。といって当の本人は、少しも嘆いていないのだが。

 

「あの左大臣を困らせるとは、そなたもなかなかだねぇ?」

 式部卿の宮はそう苦笑する。

 征之と式部卿の宮とは、征之が近衛府に務める以前から、この邸で顔を合わせているため、お互い遠慮がない。

 なにせ征之の乳母・薫衣の妹が、式部卿の宮の母だからだ。

 式部卿の宮の母は内裏にて内侍という位の女房だったが、先々帝の手がついた。

 そして生まれたのが、式部卿の宮である。

「俺は別に、困らせるつもりはないんですが」

 征之は軽く嘆息し、視線を上に運ぶ。

「どおりで、左大臣が二の姫をわたしに押し付けてきたはずだ」

 征之が断った二の姫との縁を、式部卿の宮に持ちかけてきたという頼房の身の代わりようは、いまさら驚くようなことではない。

「俺より宮のほうが妥当だと思いますよ。雅という言葉を、琵琶湖の底に沈めてきたような男よりは」

「そこまで自身を、卑下しなくてもよかろうに……」

 式部卿の宮はそういって、再び苦笑した。

   

         ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆


 三更さんこう(午後11時から午前1時)の内裏内――、その庭は、月の光すらも遠慮がちにしか射さないほどの暗さに包まれていた。

 夜の帳が降りた庭には静けさが漂い、足元に生い茂る草花がひっそりと息をひそめている。ほんのかすかな風が竹林の隙間をすり抜け、葉の擦れ合う音だけが微かに響いた。

 昼間は華やかな景観を誇る池も橋も黒く塗りつぶされ、その水面は、闇を映して底知れぬ深さを感じさせる。まるでこの世とあの世の境を隔てる鏡のように、夜の闇をすべて飲み込んでしまうかのようだ。

 

「なにか出そうな夜ですね? 中将さま」

 一緒にいた、左近衛少将・藤原直之が征之を振り返った。

 この夜、ふたりは宿直番であった。

 背に矢の入った胡?ころく威儀弓いぎゆみを手にし、紫宸殿から清涼殿の庭へと歩を進めていく。

「言っておくが、何かが出ても俺のせいじゃないからな」

「あなたが言うと、本当に出そうで怖い」

「お前なぁ……、武官だろうが」

「物の怪に耐性がある武官が、六衛府にいると思います?」

 そう聞かれ、征之は言葉に詰まった。

 六衛府は左右の近衛・兵衛・衛門の総称をいうが、近衛が内裏の内側を警衛するのに対し、兵衛・衛門は、内裏の外側を警衛する。

 侵入を謀る賊に対抗できても、異界の存在は彼らも専門外であろう。

 不意に、なにかの鳴き声が耳朶を掠めた。

 如何にも気味の悪い鳴き声に、直之が引き攣った声で「鵺」と呟く。

 その時だ。闇の中から、白いモノが立ち上がる。これに、直之が腰を抜かした。

「まったく……、しょうがないな……」

 征之は首の後ろを掻きつつ直之に呆れ、それを振り返った。

 闇に浮かび上がる、白い面――。

 口の端がにいっと吊り上がり、なるほどこれでは直之でなくとも怖いだろう。

 しかし征之は違った。

 昔から物の怪は良く視えていたため、怖いという観念はない。


「ようやく、お出ましか」

 征之の背後に、鬼神・紅蓮が顕現する。これに白い面が、内裏に向かって逃げようとした。

「紅蓮、奴を内裏の中に入れるな」

「わかっている」

 紅蓮は一気に跳躍し、白い面を追う。

 またも、内裏に現れた白い面。

 その目的は定かではないが、この内裏に、白い面が彷徨うなにかがあるのだろう。

 幸い、内裏では騒ぎになっていなかった。

 七殿五舎の敷地に入ると、幾つかの局に灯りが灯っている。

 おそらく女房の何人かが、まだ起きているのだろう。

 

「――どなた?」

 凝華舎まできたとき、征之を御簾奥から問う女人がいた。

 中宮・璋子の在所である凝華舎は、清涼殿の北西にある殿舎で、別名・梅壺という。

 白い面の怪異が始まった場であるここで、璋子の側仕えの女房が亡くなり、最近新しく女房が入ったという。

「宿直の者にございます」

「左近衛中将さま……?」

「え……」

 新顔の側仕えは、征之の正体を知っていた。

 女性に身分や名を明かした記憶がない征之にとって、思わず固まった。

「――なにかございまして?」

 声の感じから、まだ若そうだ。

「いえ……」

 物の怪が出たとは言わないでおこう――、征之は軽く一礼し踵を返した。

「あの……」

 再び呼び止めてくる女房を、征之は振り返った。

「なにか? 女房どの」

「いえ……」

 今度は彼女が言葉を濁した。

 結局、白い面はそのまま姿を消したらしく、奇妙な夜は更けていった。

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