第9話 小少将の君の秘め事 ①
出雲に神々を送るという風、
すでに出雲に集まった神々は帰り支度をしていようが、日増しに冷たさを帯びる風に、
いや、冷たいのは床だけではない。
かの女房は、殿舎に向かうその簀子で歩を止めた。
ここに来る途中、弘徽殿の女房たちとすれ違ったのだが――。
「あらあなた。見かけない顔ね? どちらの方?」
「凝華舎に出仕いたしました
小少将が深く頭を下げると、彼女たちの目が剣呑なものになった。
「梅壺の? じゃあ、あなたね? 小少将の君なぁんて呼ばれている恥知らずは」
ひとりの女房がそう言えば、周りの女房たちがクスクスと扇越しに笑い始めた。
「父親は昇殿もままならぬ五位。それも受領止まりだとか」
「いったいどうしたら、そんな家の姫が中宮さまの女房になれたのか、ぜひお伺いしたいと思ってましたのよ」
明らかな蔑みに、小少将の君は俯いた。
確かに実家は藤原家でも下級貴族で、父が受領から上の官職に就くことはなかった。
そんな小少将の君の背後から、一喝してくる声があった。
「いい加減になさい!」
小少将の君が振り向くと、
これに、弘徽殿の女房たちは青ざめた。
「
「ここを何処とお思い? 畏れ多くも
賢所ときいて、ここが
紫宸殿の北東にある殿舎で、賢所には三種の神器・
藤内侍の剣幕に、弘徽殿の女房たちは衣擦れを響かせて退散していく。
「藤内侍さま、申し訳ございません」
「あなたが謝ることはなくてよ? 小少将。これからも彼女たちがなにか言ってくるでしょうけど、気にしては奥勤めは務まらないわ」
「弘徽殿の女御さまと中宮さまは、お仲が悪いのでしょうか?」
「お二人が顔を合わせることはないから、なんとも言えないわね。少なくとも彼女たちは、自分たちの女御さまが東宮をお産みになり、国母となると思っているわね」
国母とは、帝の母を指す。
すなわち産んだ皇子が東宮となり帝となれば、その母は国母として敬われる。
小少将の君が仕える中宮・璋子はいまだ懐妊の兆しはなく、弘徽殿の女御がもし先に皇子を産めば、中宮の座は揺らぎかねない。
――わたしに、中宮さまをお支えすることなんてできるのかしら……。
藤内侍と別れた小少将の君は、凝華舎を前に嘆息する。
御簾を潜り中へ入ると、中宮・璋子が微笑んだ。
「
御匣殿は
「申し訳ございません……。迷ってしまいまして……」
事実である。
御匣殿には辿り着けたのだが、帰りが温明殿の方角になってしまった。
実は彼女は、方向音痴なのである。
そしてもうひとつ――、小少将の君には誰にもいえぬ秘め事があった。
ゆえに思う。
自分のような者が、中宮の側にいていいものか――、と。
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「ばか、違うよ。誰かが俺の噂をしてるんだ……」
どうせ、ろくな噂ではあるまい。
苦々しく視線を上に運んだ征之に、泰時が話題を振る。
「そういえば、また例の物の怪と遭遇したそうだな? 腰より口が軽い直之が、朝からこの世の終わりとばかりに青い顔をしてしていたぞ」
「その物の怪には、逃げられたけどな」
「なんだ。つまらん」
「お前なぁ……、人の苦労を……」
鬼や物の怪が視えるお陰で、厄介事に巻き込まれた友に対し、泰時はあっさりとしたものだ。
「人間の女ではなく、物の怪に好かれるとは、可哀想に」
「お前――、心から可哀想と思っていないだろ?」
思わず半眼になる征之に、泰時は視線を逸らす。
「……それにしてもその物の怪、内裏になんの用があるのだ? まさか、内裏にいる誰かを祟ろうとしているんじゃないだろうな?」
「俺にわかるわけがないだろう」
まったく泰時という男は、征之をどう見ているのか。
泰時はまた「なんだ。つまらん」と呟いて、手元の書に筆を走らせ始めた。
ただそのときのことについて、征之は思い出したことがある。
梅壺の敷地に入った時、声をかけてきた女房の存在である。
彼女はこちらが名乗りもしていないのに「左近衛中将」と看破した。
内裏の宿直は近衛府武官の担当であるため近衛府の人間だと察せられても、何処かで会い、身分を明かしていなければ、その人物の位まではわからないはずである。
宿直は、中将の任とは限らないからだ。
だが征之には、何処かで女人と会い、身分を明かした記憶がまったくない。
「泰時……」
「なんだ。金ならないぞ」
「梅壺にいる女房だが……」
これに泰時が筆をピタリと止めて、驚いた顔で見てきた。
「お前――、ついに恋に目覚めたか!?」
「は……?」
とんでもない勘違いをしてきた友に、顔を覆った征之だった。
内裏で近衛武官としての務めの他に、征之にはもうひとつ増えた仕事がある。
帝からの「怪異の原因を探れ」との依頼である。
陰陽寮の領分に立ち入ることになるため、征之は難色を示したが、征之は昔から、ふたつ年下の帝に懇願されると弱い。
勅命ではないため、征之のこの仕事は朝臣たちには知られてはいない。
清涼殿に参内した征之は、
内裏内に再び白い面が現れたことは公になってはいなかったが、帝はとうに知っていた。 白い御引直衣姿で脇息に凭れつつ、帝は扇を開いて顔をしかめた。
「かの物の怪の目的はなんであろう? 中将」
泰時と同じことを問われ、征之はここでも同じ答えを出した。
「恐れながら、わたしにはわかりませぬ」
この日も、二人の間に御簾などの隔てはない。
北院で長く育ち、南院にも出入りしていた皇子時代――、歳の近い征之を兄のように慕っていた帝は、征之と会うときは御簾を上げる。
「だがこうも現れるとは、目的があると思うが然りであろう? そのなにかがわからねば、かの物の怪はさまよい続けよう」
「ですが
いらぬ騒ぎは、避けたい征之である。
「宿直のときならば、動けよう?」
かちあった視線を逸らせず、征之は御意と、頭を下げるしかなかった。
「恐れながら――、かの物の怪が再び現れたことを、
「聞いたのだよ。梅壺の女房に」
益々、妙な話になった。
あの時――、庭には征之と、左近衛少将の直之しかいなかった。
「その女房は――」
「実はね、中将。彼女が、そなたに会いたいと申しておる。いったい何処で、彼女と知り合ったんだい?」
意地悪く笑う帝に、征之は今度こそ天を仰ぎたくなった。
そんな器用なことができていれば、早く妻を娶れと、周りからせっつかれたりしないのだが。
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