第5話 舞い込む厄介事 ①

 校書殿・弓場での弓場始めが終わった三日後――、内裏は平常に戻った。このあとざんぎくのえんのこさいと行事が続くが、霜月(旧暦11月)の新嘗祭にいなめさいまでは大きな儀式はない。

 曇天下どんてんか――、左近衛中将・藤原征之は馬の上で欠伸をした。

 昨夜は宿直で、邸に帰ったのは丑三つ刻(午前二時)であった。問題は、今朝だ。

 この日は出仕の予定はないし、遅くまで寝ているつもりだった。ところが朝方、誰かに征之の枕が蹴飛ばされた。

 そんなことをしてくる者は、ひとりしかいない。征之に憑いている鬼神、紅蓮である。

 鬼狩りに行くから、起きろという。

 そう言っている紅蓮も十分、鬼に見えるのだが。

 無視するといつまでも吠えるため、征之は外に出る羽目になったのである。

 

 ――あの野郎……。

 

 人を外に連れ出しておきながら、気配を消している紅蓮に、征之は渋面で視線を昊に運ぶ。おそらく紅蓮は、鬼に遭遇するまでは、出てこないつもりなのだろう。第一、明るいうちから鬼や物の怪が出てくるとは思えない。

 そんな征之が向かった先は、南院家がある四条の辻から、南下した途中にある邸宅であった。そこには、ある尼君あまぎみが暮らしている。

 征之は、この尼君に呼ばれたのである。

「――ご無沙汰しております。叔母上」

 征之は母屋の廂で、彼女に向かって頭を下げた。

「待っていましたよ、征之。見ない間に、いい男っぷりになったこと」

 青鈍色あおにびいろの小袿に袈裟けさ尼削あまそぎの女性が檜扇越しに笑む。

 名を藤原天寧ふじわらあまねといい、現在は慶昌院けいしよういんと名乗っている。

 彼女は前南院家当主の二女として生まれ、夫を亡くしてまもなく落飾らくしよく(貴人などが出家すること)したのだ。

 昔から温和な女性で、内裏女房だったという過去をもつ。

「まさか叔母上まで俺……、わたしに早く妻を、なぁんていうんじゃないでしょうね?」

 よほどのことがない限り邸に呼ばぬこの叔母に、征之は警戒気味に訪ねた。

「南院の末を考えればそうしてほしいのは山々だけれど――、あなたを呼んだのはそのことではないわ」

 慶昌院はそういって、その表情から笑みを消した。

 彼女いわく、山科へ向かう道である公卿の子息が亡くなったという。

「亡くなった……?」

藤原実綱ふじわらさねつなさまを知っていて?」

式部大輔しきぶたいふの……?」

 式部大輔とは役人養成機関である、大学寮を統括する式部省の長官である。

 征之はその藤原実綱の顔は見たことはないが、内裏にいれば何処何処の誰が昇進したなど噂が入ってくるため、いらぬ話まで知ることになった。

 慶昌院の亡き夫と藤原実綱は、昵懇じつこんの間柄だったらしい。

「亡くなられたのは、その御子息・敦宗さまよ。ただ――」

 まるで彼女の言葉に呼応したかのように、それまで止んでいた風が吹き、御簾と几帳を揺らした。

 

       ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆


 式部大輔・藤原実綱の子息である敦宗は、なにかと女性の噂が絶えぬ人物だったらしい。

 なかには人妻、挙げ句の果てには尼僧にまで手を出そうとしてらしく、藤原実綱は長い間この息子の女癖に悩んでいたという。

 官職に付けば落ち着くだろうと実綱は朝廷内に手を回し、駿河国の受領となったのが一年前で、王都に戻ってからは彼の女癖は治っていたという。

 そこまで聞き終えて、征之は察した。

 

「まさか、その敦宗どのが山科に行かれたのは……」

「ええ、女性の元に行かれる途中だったそうよ。実綱さまはそのことを、御子息が不幸に遭われたあとに知られたようで……」

 征之の叔母・慶昌院は、眉尻を下げて嘆息した。

 

 敦宗は父にはいうなと、家僕に口止めしていたらしい。

 家僕の男が敦宗から聞いていたのは、最初に逢いたいと文を寄越してきたのはその女性の方からだったという。敦宗を何処かで見かけたらしく、一目で惹かれしまったとその文に書いてあったらしい。

 名前も身分も、ましてや顔も知らぬ女――、だが敦宗は逢いに出かけた。

 彼にすれば婚姻の相手ではなく、遊びのつもりだったらしい。 

 敦宗に対し、また悪い癖が出たと家僕は思ったそうだが、彼の立場では止められず、山科まで牛車に従うことになったという。

 しかも敦宗は女の邸へ向かう途中の五条坂で牛車を止め、ひとりで向かったらしい。

 ことが済んだら戻ると敦宗は言っていたそうだが、敦宗が戻ってくることはなかったという。不審に思った家僕は、草叢のなかで信じられぬものを見たらしい。

 

「――それが、敦宗どのの亡骸だった……ということですか」

 征之の言葉を、慶昌院は否定しなかった。

 さらに問題はその亡骸が、普通ではなかったことらしい。

「敦宗さまの首や手足には、いくつもなにかの蔓が絡みついていたそうよ。それにあそこには、鳥辺野とりべのがあるし。変でしょう? 征之」

 鳥辺野は、風葬地である。

「…………」

 

 同意を求めてくる叔母に、征之は思わず顔を片手で覆った。

 彼女は知っているのだ。

 征之が周りで、なんと呼ばれているのかを――。

 なにかの蔓が絡みついていた亡骸――、征之はそれを同じものを内裏で目撃している。

 白い面が現れたあとの、藤壺で――。

 

 藤原敦宗の身に何が起きたのか――、おそらく彼も、怪異によって死んだのだ。

 となると、彼を山科まで呼び出した女の正体も怪しい。

 その女は果たして、本当に人間だったのか――。

 藤原敦宗を死に至らしめたモノが白い面なのか、それとも鳥辺野に葬られた者の中に、強い怨念を遺した者がいたのか、真相は定かではない。

 

「叔母上……、わたしは近衛府の武官なんですが?」

「あなた、昔から変なモノが視えていたじゃないの」

 人の話を聞いていないなこの人――と、半眼で見据えるも、彼女の言っていることも間違ってはいない。

 だがその手のモノが視えるだけで、解決する力はない。

 この手のモノは、陰陽寮に任せるのが一番だが――。

 


「やったな? 征之。これで鬼狩りができるぞ」

 慶昌院の邸を辞してすぐに、征之の背後に紅蓮が顕現した。

 紅蓮は嬉しそうだが、巻き込まれる方は迷惑千万だ。

「冗談じゃない! どうして俺が……!?」

「仕方ないだろう。千匹鬼を狩るまでは俺は、一度憑いた相手から離れられんのだ。付き合ってもらわねば困る」

 征之は彼に協力すると承諾したわけでもなく、勝手に憑かれているというのに、まるでそれが当たり前のような言い草である。

 こうなるとこれからも、外に引っ張り出されかねない。

 まったく、面倒くさいモノに憑かれたものである。

 自邸に向け、馬の歩を進めていた征之は、烏丸小路からすまこうじと交わる路でその歩を止めた。

 数十間すうじゆつけん(数10m)先で、牛車が立ち往生していたのだ。

 轍に車輪が嵌まったのか、牛飼い童たちが必死に牛の綱を引くも、牛車は動かず、随身の男が彼らを急かしている。

 


「何を、やっているのだ?」

 紅蓮が征之の頭の上から聞いてくる。

 聞こえてくる声によると、牛車が動かない原因は牛にあるらしい。

 征之は額に零れる髪を掻き上げ、ため息混じりに答えた。

「牛が、駄々をこねているんだろ」

 牛の感情がわかるわけではないが、牛も馬も、人に使われて働いていれば嫌気がさすこともあるかも知れない。それは面倒なことに巻き込まれた挙げ句、宮仕えで見たくも聞きたくない人の欲望を知った、征之ならではの思いだ。

 しかしかの牛は、駄々などこねてはいなかった。

 牛の少し前に、ひとつのうりが転がっており、これに牛が進むのを嫌がっているらしい。

 妙なのは牛飼い童たちも随身も誰ひとり、この瓜に気づいていない。

 だとしたら――。


 征之は恐る恐る、背後の紅蓮に聞く。

「紅蓮……、まさかと思うが――」

「ああ。物の怪だな……」

 断定されて、征之は「やはりか」と舌打ちをする。

 その瓜のような物の怪は、小さな足があり、なにをするでもなく、牛の前に座っている。

 紅蓮によれば、普通なら王都にはいないという。

「どういうことだ?」

「奴らは屍鬼しきと言ってな。奴らは生きている人間は喰わん。奴らが喰らうのは、死んだ人間だ。だから、奴らは化野あだしのか鳥辺野にいることが多い」

「あまり――、想像したくない光景だな……」

 ぜったい、他の人間に聞かせたくない話である。

 化野や鳥辺野は風葬地で、貴族などある程度地位にあるものならば荼毘だびに付され、墓に葬ってもらえるが、庶民は地にそのまま置かれ、屍肉しにくは獣や鳥に食われて朽ちていく。

 それが当たり前とされる地において、よもや物の怪に喰われるとは、誰も思ってはいまい。もし肉体をとうに離れた魂魄が、自身の様を見ていたしたら、どう思うのだろうか。


「紅蓮、俺はまだ。お前に協力することを納得はしていない。だが――、ここで道を迂回するほど、薄情ではない」

 征之の仕事は、帝が座す内裏を常に護ること――。

 しかし人として、このまま見なかったことにもできない。

 手にしたのは、一振りの大刀である。

 あまりにも異形のモノと遭遇するようになったため、征之は仕事以外でも帯刀するようになった。


 牛車に従っていた随身の男は、征之の存在に気づいた。

「さ、左の中将さま……!? ど、どうしてこのようなところに……」

 近衛府に属する舎人である彼は、征之の顔を知っていた。突然現れた上役に、その表情はさらに強張った。

「見ての通り、散策の途中だ」

 征之が纏っているのは表の白地に裏の縹を透かせた狩衣と差袴さしこで、指貫を履かないのは馬に乗りやすいのと、動きやすさを考えてである。

「中将さま、なにを……」

 征之が太刀を鞘から抜くと、随身の男は狼狽した。

「聞かないほうがいいと思うぞ? 牛の前になにがいるのか、とは」

 左近衛中将・藤原征之は鬼憑き――、彼には人には視えないモノが視える。

 近衛府でも広がっているこの噂を、彼も知っているだろう。言葉を飲み込み、牛のほうを一瞥して視線を逸らした。

 牛車は一般的な八葉車だ。

 外の慌ただしさに関係なく、中の人物が声を発することはない。ただ、沈香と麝香が織りなす重厚かつ甘みを含んだ薫りが、征之の鼻腔をくすぐった。

 おそらくその衣に焚きしめられているのは、黒方(薫き物のひとつ)だろう。

 牛の前にいた瓜頭の物の怪は、刀身を向けた征之に飛び上がった。

 しかも一匹だけではなかった。そこには数匹も屯していたのである。

「小者だが、最初の一匹だ」

 紅蓮は一気に跳躍し、逃げる屍鬼を薙ぎ払った。

 彼が背に佩いていた太刀を一振りするだけで炎が起き、屍鬼はたちまち塵と化する。

 征之も、牛車によじ登ろうしていた屍鬼を薙ぎ払い、斬られたその身体も塵となって宙に散る。おもえば、これが征之の初の実戦であった。


 この翌日――、征之は物忌みと称して出仕を取りやめた。

 死に接することはけがれとする貴族としては、当然なのだが。

「お前なぁ……、まさか鬼を狩るごとに、家に籠もるつもりか? 相手は、物の怪だぞ」

 紅蓮はそう呆れていたが、征之としては一部始終を目撃していたあの随身が、噂を広めていそうで怖い。

 このぶんでは叔母だけではなく、他の誰かから怪異の相談を持ちかけられかねない。

 そして案の定――、彼に頼ってきた人物がいた。

 帝が呼んでいると左近衛陣に報せがきたのは、それから三日後のことだった。

 

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