第4話 匂うの君

 神無月に入り一段と寒さが強まったこの日――、内裏・清涼殿の台所盤だいどころばん(女房たちの詰め所)では、女房たちが噂話に興じていた。いまやそれが日課であるがごとく、彼女たちの噂は止むことはなく、噂は人から人へと渡り歩くうちに尾鰭おひれがたくさんつき、随分と大袈裟なものになっていたりする。

 七殿五舎・弘徽殿にて、女御・藤原笙子ふじわらしようこに仕える深草少納言ふかくさしようなごん(女房名)は、衝立と几帳で隔てられたその陰で嘆息した。

 たんに探し物をしに入ったのだが、出ていく機を逃がしてしまった。遠慮せずに出ていけばいいのだが、どうも出て行きづらい。


「今年の弓場始ゆばはじめには、におうの君も出席されるのかしら」

 移菊うつろいぎく(薄紫と青秋の襲)に、唐衣裳装束を纏った女房が口を開いた。

「当然ではなくて? あのかたは、主上おかみの御近くにおられるかたですもの」

 問われた、蘇芳菊すおうぎく(白と濃蘇芳の襲)に唐衣裳装束の女房がそう答えた。

 弓場始めとは内裏・校書殿きようしよでんにて帝が観覧する、弓の儀式のことである。

 この儀式に列席するのは、公卿以下の殿上人で、殿上てんじよう賭弓かけゆみとも呼ばれる。その名の通り、報奨を賭けての射弓いゆみとなり、殿上人にとっては昇進の機会となろう。

 噂の匂う君は、帝に近習する蔵人頭くろうどのとうだが、本当の名前は別にある。

「さきほど参内さんだいされたところを見かけたのですけれど、あのかたの前では他の殿方もくすむ麗しさでしたわ」

「それでは他のかたに、失礼じゃなくて?」

 その声は諌めているというより、同調しているように聞こえる。

 すでに夫がいる者は別として、匂うの君から恋の和歌が贈られるのを期待するものは多い。血筋も見目もよく、公卿への昇進間違いなしという地位にあるのだから当然かも知れないが。

 しかしそんなことよりも、いつまでも衝立の裏にいるわけにはいかず、深草少納言は咳払いをした。これに噂で盛り上がっていたふたりの女房が「ひっ」と軽い悲鳴を上げた。

「少納言さま……っ!?」

「黙っていてごめんなさい。女御さまの御用で来ていたの」

 彼女たちほどではないが、自身も表情が引きつり気味なのがわかる。

「そ、そうでございましたか」

 彼女たちは明らかに動揺している。

 同じ女房でも、帝以外のあるじに仕え、つぼね(部屋)と名を賜った少納言のような上臈じようろうと、内裏内を動き回ることが多い命婦みようぶ中臈ちゆうろうでは、上臈のほうが上だ。

 少納言は彼女たちを責めたつもりはなかったが、彼女たちはそそくさと御簾の外へでていく。よほど慌てていたのか、衣擦れの音が忙しない。

 

 少納言が本来の職場――、すなわち弘徽殿に戻ってきたのは、それからまもなくである。

 自身の局にて墨を磨っていた彼女は、近づいてきた薫りにその手を止めた。

 いまの時期ならば菊花きつか(秋の薫香)を貴族たちは纏うが、近づいてくる薫りは白檀の香りが仄かに甘く、伽羅がもたらす深みのある香気だ。

 少納言は、誰が来たのかすぐにわかった。

 御簾の前で、直衣のうし姿の男が歩を止めた。

 内裏で雑袍ざつぽうである直衣で参内し、弘徽殿までやって来る朝臣はひとりしかいない。台所盤で噂されていた匂う君こと蔵人頭――、藤原兼近ふじわらかねちかである。

「女御さまに御会いしたい。取り次いでもらえるかな? 少納言どの」

 噂していた女房たちが聞けば感激のあまり卒倒しそうな甘い声で、かの人物はそう告げた。

 

                   ◆


 昨夜に降り出した雨が止み、朝には晴れた秋昊しゆうこう――、草叢くさむらで秋虫が鳴き始めたこの頃、内裏での怪異は収まっていた。

 されど王都に出没している盗賊は昨夜も現れ、参議・藤原為光ふじわらためみつの牛車が襲撃されたという。どうやらかの公卿は、意中の相手の元に忍んでいく最中だったようだ。

 

「ふん、つまらん……」

 内裏・紫宸殿のきざはし前で、半裸の上半身に、腕に領巾を絡ませただけの男が不満を口にした。征之に憑いている鬼神、紅蓮である。

 征之より頭一つ分の高身長で、見た目は鬼の男が、帝が座す内裏の敷地内にいれば十分目立つのだが、紅蓮はなんのそのだ。

「お前なぁ……」

「人間じゃあ、俺の出番はないだろうが」

 紅蓮は都に出没しているのが、鬼や物の怪ではないことに不満らしいが、征之にとっては紅蓮が堂々と顕現しているほうが不満だ。

「俺が言いたいのは、そっちじゃない」

「はぁ?」

「内裏では出るなと言っている」

 もう幾度目かとなる台詞に、紅蓮はそれがどうしたといわんばかりだ。

 征之が困るのは、ふたりが会話しているところを目撃されることだ。

 目撃するほうにすれば征之しか見えておらず、紅蓮がいても問題ではないのだが、その視えない相手と会話する征之が奇妙に見えるために、鬼憑きの中将と呼ばれる羽目になったことだ。

 まぁ、鬼憑きなのは事実だが。

 

「他に俺が見える人間はいないだろうに。それにここ――、やつらにとっては、もってこいの場所だと思うぜ?」

 紅蓮は白い髪を掻きながら、口元から鋭い牙を覗かせた。

「どういう意味だ……?」

 征之は、内裏が鬼や物の怪たちの都合の良い場所という紅蓮の言葉に、胡乱に目を細めた。

「たいがい奴らは自らの意思でやってくるが――、人間が招き寄せることもあるってことさ。人間の負の感情は、大好物だからな」

 そう語る紅蓮の口調は、至って軽い。

 内裏に権力に絡む欲や、嫉妬や恨みがあることは、征之は重々承知していた。

 彼が現在の近衛中将より上を望まないのは、権力というものにまったく興味がないからだ。とはいえ、内裏を護る職に就いている手前、内裏で起きる事件は無視はできない。

 

「こちらにおいででしたか? 中将さま」

 濃緋の闕腋袍を纏った左近衛少将・藤原直之が、そう言って、征之がいる紫宸殿南庭までやってきた。

 すでに紅蓮は姿を消しており、消えるときも勝手な男である。

「なにか用か?」

 征之の問いに、直之は頭を撫でつつ軽く笑んだ。

「いえ……、用というほどでは……」

 彼いわく、弘徽殿へと渡っていく頭中将・藤原兼近ふじわらかねちかを見かけたという。

 頭中将は近衛府中将と蔵人所くろうどどころの実質的長官、蔵人頭を兼任するがゆえにそう呼ばれ、その頭中将に就いていたのが藤原惟成あった。貴公子の手本を絵に描いたような男で、当然女性たちに人気があり、匂う君と呼ばれているらしい。

「弘徽殿……?」

 征之は眉を寄せる。

 弘徽殿は後宮・七殿五舎のなかで、最も格の高い殿舎だ。

 その弘徽殿を賜っていたのは、かつての摂関家にして嫡流藤原家のひとつ、西院家から女御として入内した藤原笙子である。

 

「此度の弓場始めで、頭中将さまも射弓をご披露されるそうです。なんでも主上が、ご希望されたとか」

 この少将、どこでそんな噂を拾ってくるのか。征之は呆れつつも、そうかと言って纏う黒の闕腋袍の袂を翻した。

 帝の覚えがめでたいことはいいことだが、征之にはとくになんの感情も湧かない。

 そもそも、他人と張り合ってまで昇進しようという気がないこの男は、所詮は他人事なのである。

 

           ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆


「――女御さま、ご無沙汰しております」

 弘徽殿を訪ねた頭中将・藤原兼近は、弘徽殿の女御・藤原笙子の前で低頭した。

 兼近は白地に固地綾こじあや(織り)の直衣に、鳥襷とりたすき(有職文様のひとつ)の指貫という姿だが、これは直衣で参内が許さた者に限るとされる雑袍勅許のお陰だ。

「本当に。そなたまで薄情とは思わなかったわ。兼近」

 笙子は兼近を官職名である頭中将とは呼ばず、名で呼んだ。

 笙子は唐衣と裳を外した、楓紅葉かえでもみじ(秋の襲)の五衣姿である。

 内裏とはいえ、正装である唐衣裳でいるのは女房たちだけで、女御や中宮が唐衣裳となるのは儀式などが主だ。

 ふたりの間に御簾や衝立、几帳などの隔たりはなく、笙子の堂々たる姿は兼近に丸見えな形である。これが他のものならあり得ないのだが。

「以前にもまして、多忙になりましてございます」

 笙子が「そなたまで薄情」と言った意味を、兼近は察した。

 彼女も帝の妃だが、帝の渡りはここ最近は皆無のようなのである。

「それは仕事のほう? それとも何処ぞの局に忍んでいるせい?」

 衵扇を開いた笙子が、笑みをこぼす。

「相変わらず意地が悪い。わたしはこの内裏で、御簾を越えることはしませんよ。姉上」

 低頭していた兼近は顔を上げ、自ら上下の差を縮めた。

 ふたりの間に隔たりがないのは、ふたりが兄弟関係にあり、帝の許可を笙子が得たためだ。

「それより、最近の騒ぎをどう思って?」

「帝は源頼信みなもとのよりのぶどのを、追討使ついとうしして御遣わせになられるようです」

 盗賊は王都のみならず、近隣の国でも騒ぎを起こしているという。

「問題は、怪異のほうよ。例の物の怪、北院の人間ばかりに現れているとか。なかには――、先帝が怨霊となられ、祟っているとの噂も」

「まさか……」

 兼近は瞠目した。

 先帝は即位から二年後、二十歳の若さで崩御している。

 一般的に病死とされているが、呪詛されたと思っている人間もおり、北院が関わっていると言われた。この突然の崩御で北院の姫が産んだ皇子が即位し、北院家が朝廷の頂に立ったのだから、噂されても当然かも知れないが。

 

「真偽はどうでもよくてよ?。だってそうでしょう? これで北院が権威低下するようなことがあれば――、西院家が再び朝廷の頂に立つことも可能だもの」

 北院家の周りで起きていることを、笙子は満足げに笑う。

「ですが、中宮さまがご懐妊あそばされ、東宮さまがご誕生されれば……」

「最近の中宮さまは、体調が優れぬとか」

 その表情は心配しているようには見えず、我が姉ながら恐ろしいかただと、兼近は思った。 


 そして――。


                    ◆


 暮夜ぼや(夜になった頃)の草地――、その男は歩を進めていた。

 牛車から下りた彼は供も連れず、ひとりでここまでやってきた。

 ある目的のためだ。

 昊に浮かぶ偃月えんげつ(半月より細い月)に辺りを照らすほどの明るさはなく、突然吹いた風により烏帽子が飛ばされ、彼は探さねばならなくなった。

 貴族にとって、頭を見られるのはもっとも恥辱なのだ。

 ふいになにかの気配を感じ、彼はその手を止めた。

「え……」

 彼はそれを、刮目かつもくする。

 見上げた昊に、月ではないモノが浮かんでいる。

 白い楕円形の形に、目と口があり、その口がにいっと吊り上がった。


「ひっ……」

 それがなにかわかった瞬間、男は地に尻もちをついた。

 逃げなければ――、そう思うのに足に力が入らない。

 だが一度絡んだ視線も逸らせず、首や手足に絡んできた植物の蔓に、彼の意識が蕩けていく。

『我が背の君』

 女の声を聞いたのを最後に、彼はすべての意識を手放したのだった。

 

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