第3話 異界からやってきた鬼神、紅蓮 ③

 晩秋のやしきの庭――、咲き乱れる花々は実に賑やかだ。

 赤紫色の小さな花をつけた藤袴ふじばかま、足元で白い花を覗かせる秋明菊しゆうめいぎく、群れを成す女郎花おみなえし、風に揺れる暗紅紫色あんこうししよく吾亦紅われもこう

 その庭を、髪を角髪みずらに結った、狩衣姿の少年が駆けている。

「若君、若君はどちらに」

 自分を探す女房の声に、少年は渋面で振り返った。

「まったく、しつこいなぁ……」

 今年で十四歳となる彼は、もうすぐ元服だった。

 かの女房は漢詩に和歌、楽などの教養を彼に仕込もうはりきっており、少年はこれから逃げ回るのが今や日課となっていた。

 そんな彼が逃げ込むのは、いつも塗籠だった。

 そこには亡き母の唐櫃からびつがぽつんと置かれ、彼はまだ開けたことはなかった。

 思えば彼に母の記憶はない。

 病がちだった彼の母は、いつも御簾の向こうにいて、彼が十の歳に身罷った。顔も知らぬ母であったが、この唐櫃だけが、母が確かにこの邸にいたと証明するものだった。

 蓋に手をかけ、ついに唐櫃を開いたとき――。


「若君!」

 背後からかかった声に、少年の肩は跳ね上がった。

 

                  ◆


 風が紅葉を揺らす庭先――、邸の簀子縁で寝落ち仕掛けていた征之は、自分を呼ぶ声に跳ね起きた。

 耳の後ろをぽりぽりと掻きつつ、征之は自分を起こした人物を半眼で捉えた。

薫衣くぬえ……、いきなり大声でなんだ?」

 衣擦れをさせて、紫に二藍を合わせた、萩重はぎがさね(小袿の重ね色目)の女房がやって来る。

 薫衣は征之の乳母めのとであり、邸にいる女房や家僕の束ね役である。

「いい加減に、お方さまをお迎えくださいませ。やっと繋がった南院家の嫡流でございますのに、征之さまには、嫡子の自覚がございませぬ」

 もうすぐ四十路よそじ(40歳)になろうという彼女は、南院家に尽くすことを生き甲斐としている。

 藤原四家の北院、西院、南院、東院は世襲制を続け、嫡子が家を継ぐために嫡流の藤原家と呼ばれ、その四家から枝分かれしていった藤原家を傍流の藤原家と呼んでいる。

 南院家は一時期、存続の危機にあった。

 征之の母・葛葉の他に、前南院家当主は男子に恵まれなかったのである。

 征之の父・露親が北院から婿入り、南院家断絶は免れたものの、生まれる子が男子でなかった場合、嫡流ではなくなるらしい。

 つまり征之は、南院家待望の嫡男だったのである。

 しかし当の本人に婚姻の意思はなく、首の後ろを掻いた。

 

「そういわれてもなぁ……」

「政に関心がないことは重々承知いたしましたが……、せめて女性に興味をお持ちくださいませ。藤原智隆ふじわらともたかさまの姫君などいかがでございましょう? 傍流ではございますが、智隆さまは南院の流れも引き、この度の除目じもくで、内蔵寮ないくらりよう(宮中の会計を管掌する部署)のとうになられたとか」

 征之は、また始まったかとおもいつつ、額に落ちる髪を掻き上げた。

「そういえば――、まだあの唐櫃はあるのか?」

 幼い頃によく隠れた邸の塗籠――、そこにぽつんと置かれた唐櫃が、今になって記憶に蘇った。

 病が伝染うつるといわれ、御簾越しにしか会えなかった母――。

 そんな彼女が遺した唐櫃を征之が開けたのは、元服前の十四歳の秋。

「亡き葛葉さまの……? あれがなにか?」

 征之の問いに、薫衣は首を傾げた。

「いや……、母上はなぜ、唐櫃だけをあそこに置いていたのかと思ってな」

 思えば、あれからだ。

 征之が、人には見えぬ鬼などが視えるようになったのは――。

 

           ◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆ 


「お前、俺が視えるんだろ?」

 征之が二条大路で出くわした鬼・紅蓮は、いきなりそう聞いてきた。

 これまでそういったモノが確かに視えていたが、災いになることはなく、聞かれるまで本人すら忘れていた能力である。

 天にいた鬼神だという紅蓮は、些細な過ちによって地に堕とされという。

「俺が天に還るためには、千匹、鬼狩りをしなきゃならん。ただ、俺が能力を使えるのは人間にく必要があってな。さらにだ。その人間の指示がないと動けんときた。さらに……」

「まだあるのか……?」

「その人間は、俺の姿がはっきり視えることだ」

 話を辛抱強く聞いていた征之は、ついに憤慨した。

「冗談じゃないっ!!」

 当然である。

 これからこの紅蓮は、征之の身に憑こうとしているのだ。

 鬼に憑かれて喜ぶ人間は、おそらくいまい。

「お互い、いい話じゃないか? 人間のほうは鬼が退治できる。俺は天に還る道が近づく。お前も名が売れるぞ?」

「断る!!」

 なぜこの日に限って帰宅の路を変えたのか――、征之はそのときほど、己に備わった能力を悔やんだことはなかった。


 しかし――。

 


 長月下旬、左近衛陣で眉間に皺を刻んでいた征之を、源泰時が苦笑した。

「えらく不機嫌そうじゃないか。征之」

「いろいろあってな……」

 文机にて片手で頬杖をついていた征之は、溜め息を漏らした。

 鬼神・紅蓮の勝手な言い分に憤慨した征之だったが、相手が悪すぎた。

「いろいろって?」

 まさか、鬼(本人は鬼神と言っている)に憑かれたとはいえず、征之は泰時から視線を外した。

「いや……、こっちの話だ」

「そういえば梅壺に新しい女房が入るのは、三日後だったよなぁ……」

 白い面が現れるという怪異のお陰で、凝華舎の女房が減った。

 中宮・藤原璋子の側仕えがいないということは、たしかに問題で、代わりに新しい女房が入ってくるのだ。

 しかし泰時いわく、護衛の随身ずいじんがいないらしい。

「いない?」

 随身とは、左右近衛府の舎人など下級武官のことで、上皇・法皇、摂政・関白をはじめ、近衛府の大将・中将・少将や、衛府・兵衛の長官や次官などに付き従い、その警護する者である。随身は貴族の護衛もすることもあり、牛車に付き従っていることがある。

「最近の王都は、また盗賊が出没してせいで昼間でも危険ときた」

「要するに、人手が足らなくなったということか……」

「ここ数日、内裏に参内してくる藤原実資ふじわかさねすけどのの顔をよくみるが、左大臣さまに、早く解決せよと言われているらしいぞ」

 藤原実資は検非違使の長官、別当に就いている人物である。

 王都の治安維持と犯罪を取り締まるのが検非違使の職務とはいえ、賊は巧みに逃げているらしい。

 左大臣・藤原頼房は、怪異によって北院に関わる者が怪異に遭い、その心は穏やかではないだろう。自身の姫である中宮・璋子が皇子を産み、東宮に立坊されているのならまだしも、懐妊の兆しすらなく、盗賊まで王都を賑わしている。ならば都の治安悪化を抑え、権力維持をしたいということか。

 征之は文机に広げた料紙りようしに、筆を入れ始めた。

 近衛武官であれ、見回りの担当でない場合はこうした文書作成に回される。

 そんな料紙を、征之の頭の上から覗き込んできた男がいる。


「お前――、文字のほうも腕を磨いたほうがよくないか?」

 上半身裸に腕に領巾を絡ませただけの男は、そう言う。

 征之に憑いた鬼神、紅蓮だ。

 堂々と姿を顕現させているが、彼の姿は征之にしか視えない。

 征之の字は決して判読不可なほど乱れてはいないのだが、紅蓮にいわせると蚯蚓みみずにみえるらしい。なにせ和歌も詠まぬ征之は、昔から書も苦手だった。

「余計なお世話だ」

 征之はそう言って、筆に力をいれる。おかげでその文字は蚯蚓というよりも、ふなのごとく太くなったが。

 

                 ◆


 かの女流歌人・清少納言は、秋は夕暮れがいいと枕草子で言っている。

 そんな枕草子から顔を上げ、彼女は視線を庭の方角へと運ぶ。

 刻限は先ほどつづみが七つ打たれ、さるの刻を少し過ぎた頃だろう。

 御簾がそっと風に揺れるたび、秋の冷気がほんのりと部屋の中へと流れ込んできた。

 

 ――天は、わたしのことをお怒りなのだわ。

 

 相次ぐ内裏での怪異に、彼女は己を責める。

 帝を陰から支えるべき、中宮の務めを果たしていない己に――。

 父親が嫡流藤原家・北院の当主となると、その姫の夫となるべき相手は帝と、父・頼房は璋子を蚊帳の外において入内を進めた。

 当然次期帝となる東宮出産を期待する父に、璋子はなんの恨みもない。ただ、慈しんでくれる帝に対し、子を成せぬ己が申し訳なく、今回も体調を崩して里に下がることになった。ようやく内裏に戻ってこられたものの、こんな己が中宮でいていいものなのか。

 ゆっくりと御簾を持ち上げると、壺庭が見えた。

 金色に色づいた楓の葉が、ちらちらと風に乗って舞い落ちている。昊に浮かぶ薄紅色の雲は日が西に傾くにつれ、徐々に茜色に染まり、萩と吾亦紅が揺れながら秋風に応じるように揺れていた。

 彼女もまた、濃紅と濃黄からなる朽葉襲くちばかさね五衣いつぎぬを纏い、それには菊花の薫りが焚きしめられてある。

 そんな彼女の殿舎・梅壺に、今上帝が渡ってきた。

  

「――主上おかみの、お渡りにございます」

 そう告げる女房の声まもなく、白い御引直衣の帝が御簾を潜ってくる。

「主上……」

「顔色が優れぬようだが、まだ身体のほうは悪いのか? 璋子」

「もう良くなりましてございます」

「今宵は、ちんの笛を聞かせたくてな」

 帝はそう言って、いつもと変わらず微笑む。

「わたくしのような者に、もったいのうございます。主上おかみ

 璋子は決して、感情を外に大きく出す女性ではなかった。ただ、自信のなさが口に出てしまう。


 弘徽殿の笙子が、羨ましい。常に堂々している彼女が。

 帝の胸に抱かれながら、璋子はそっと目を閉じた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る