第1話 異界からやってきた鬼神・紅蓮 ①
平安王都・朱雀大路――、
「へぇ、これが都ねぇ……」
彼は大胆にも、門の上にいた。都の入り口とされる羅生門の上に。
しかしそんな彼を咎める者は、誰一人としていない。
体長は六尺、白色の
風が吹き、腕に絡ませている
「とにかく、誰かを見つけんと……」
彼は白色の髪を掻き上げ、天を恨めしげに仰ぐ。
――何としても、もう一度あそこへ還るのだ。
そんな決意のもと、彼は羅城門から姿を消した。
◆
ちょうど、
「聞いたか? 征之」
宜陽殿の左近衛陣にて、左近衛中将のひとり、源泰時が口を開いた。
刻限は
同じ黒地の
「なにが?」
「今度、梅壺に入る女房の話さ。かなりの美姫らしいぞ」
泰時はやや興奮気味に、そう言った。
梅壺は内裏北側にある七殿五舎(後宮)のひとつで、正式名は
これまでは女御の殿舎だったが、現在は中宮・
その梅壺に、藤原東院家縁の姫が女房として入るという。
「お前……、その手の話には敏感だな」
泰時は何処から噂を拾ってくるのか、どこどこの姫は美人だとか、やたらと詳しい。
「お前が鈍感すぎるんだよ、征之」
「だが東院家は断絶したんじゃなかったか?」
そう、東院家は家を継ぐものがいなかったために断絶した、というのが定説である。
藤原家は大まかに四家に分類され、元は前の時代の藤原兼人を祖とする。
その四人の息子が興したのが
だが東院家だけは
「その成彬さまの姫が権中納言・
その姫が女房として梅壺に入れば顔を拝めるかも知れない――、という泰時に対し、征之は呆れるしかない。
「そういえば、例の怪異はどうなったんだ?」
征之の問いに、泰時の表情が硬くなる。
「ああ、あれか……。白い面が浮かぶという――」
この、ひと月前のことだ。
昨年前まで
問題はその白い面が、内裏にまで現れたことである。
このせいで内裏女房が三人も精神を病み、さらに凝華舎では中宮・
藤原東院家縁の姫が凝華舎に入るのはおそらく、この女房が内裏を辞しことにより、中宮の世話をする女房が少なくなったことによるものだろう。
泰時いわくその後、白い面は内裏にも貴族の邸にも出ていないらしい。
陣での慣れぬ書簡整理をしていた征之は、ようやくそれから開放されて、
本来、じっとしていることが苦手で、武官の道に進んだのも、内裏での権力争いなどに関わらずに済むと思ったからだ。
征之の父にして藤原南院家当主・
つまり征之は、列記とした貴公子なのだがこの男、和歌や宴は苦手で、得意なのは弓の腕だけである。顔は精悍な面立ちをしているようだが、己の美醜にも無頓着ときた。
ゆえに、恋とも無縁である。
征之が朱雀門を出たのは、酉の刻であった。
俗にいう、逢魔が時である。
すでに出仕していた公卿や殿上人は帰宅したのか、主待ちをしている牛車と牛飼い童たちの姿はない。
征之の自宅、南院家がある四条の辻(四条大路と他の道が交わる角)まではさほど遠くはないものの、まさか
「お待ち申し上げておりました。若さま」
南院家に仕える
しかし征之はこの「若さま」という呼ばれ方も苦手だ。
「三郎……その若さまという呼び方、やめないか? 背中が痒くなるんだよ……」
「そう申されましても、
薫衣とは南院家に仕える女房で、征之の
征之の亡き母・南院家直系の姫である
「俺も、彼女は苦手だな」
征之は馬上で冠から零れる前髪を掻き上げ、軽く嘆息した。
逢魔が時――、他界と現実を繋ぐ時間の境目であり、鬼や物の怪がうごめき始め、災いが起きるという。
白い面が引き起こした怪異がなんの解決もされぬまま数日が過ぎ、人々の記憶から消えようというこの日、征之は四条大路に入る手前で馬を止めた。
ひとりの男が、
半裸なうえに、浅黒い肌に白い髪、背丈は六尺はあるだろうか。
背に
明らかに、この国の者ではない。
「誰だ? あれは……」
征之の呟きに、従っていた三郎が征之を見上げた。
「え? なにがです?」
「あそこにいる男だ」
征之の言葉に、三郎は首を傾げた。
「いえ……、いませんが?」
彼の返事に、征之は愕然とした。
三郎には、その男は視えていなかったのである。
となれば、征之に見えているのは人間以外の存在――、鬼か物の怪となる。
白髪の鬼も征之に気づき、同じように瞠目している。
金色の目が向けられ、にっと嗤うと、その鬼は溶けるように消えた。
そんなときだった。静寂を破る、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「若さま、今の悲鳴は……」
悲鳴を頼りに駆けつけた邸の門前で、三郎が恐る恐る征之に聞いてきた。
「確かここは、
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
中宮大夫――、内裏後宮・七殿五舎の事務一切を担当する
「大夫どの」
門を潜り入ってきた征之に、邸の簀子縁にいた藤原実近の顔は引き攣っていた。
「さ、左の中将どの、どうして……」
「叫び声が聞こえたゆえ、無礼と承知で罷り越した次第です」
これに、実近の側にいた女房が口を開いた。
「白い面が……」
「滅相なことをいうでないっ。そなたの見間違いであろう!?」
実近に叱責されるも、彼女は訴える。
「いいえ、殿様。私ははっきり見ましてございます。昨夜、この庭に白い面が浮かんでいたのを。若様はきっと……」
「その御子息はどちらに?」
征之の問いに、二人は視線を逸らした。
「そ、それは……」
実近の目が一瞬、
対の屋の妻戸は開かれ、御帳台が覗いている。実近と女房の表情から察するに、彼の子息の身に何かが起きたことは間違いないだろう。
隠せないと思ったのか、女房が話す。
「若さまは数日前から、女性と対の屋にお籠もりになられておりました……」
実近の子息は
御帳台の中に女はおらず、倫卓は目を見開いたまま絶命していたという。白い面はその直後に現れたらしい。
――なるほど……、そういうことか。
征之はその倫卓の父親である実近がなぜ、事実を隠したがるのかわかった気がした。
位は征之と同じ従四位下だが、実近は中宮大夫という要職に就いている。その息子が得体の知れぬ女を邸に入れ、挙げ句の果てには物の怪によって死んだとなれば、地位を失うかも知れぬと考えているのだと。
だが征之の頭の中には、路にいた白髪の鬼がいた。
あの鬼が白い面の怪異を招いているのなら、ことは厄介である。
とても近衛武官である征之に、太刀打ちできる相手ではない。
しかし征之が敢えてこの事件を口にしなくとも、翌日は内裏で噂になっていた。
病に臥せっていたのならともかく、中宮大夫の息子が突然亡くなった。内裏で薄れつつあった白い面の存在が、集う者たちの記憶のなかに蘇ったらしい。
◆
「――最近、中宮さまの身の回りでは不幸が続きますこと……」
金地に牡丹を描いた檜扇を広げ、その女人は冷たい視線を向けた。
「中宮大夫さまのお邸にも、白い面が現れたらしいとの噂でございます。女御さま」
白の表に裏は薄紫の
刻限は
女房の主は蘇芳と青(黄緑系)の
名を
「左大臣さまは、戦々恐々でしょう。こうも、北院縁の人間にばかり怪異があっては」
確かに怪異は、藤原北院家に関係する人間に起きている。
「今度は左大臣さまが――」
「滅多なことをいうものではなくてよ? 少納言。仮にも、
茂子がなにを言わんとしているか察して、女房・少納言の君は戦慄を覚えた。
権力争いは決して殿方たちの間で起きているものではなく、ここ、七殿五舎でも起きていることを――。
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