序章 その男、鬼憑きなり
長岡京から
かつての都では
長岡京に遷都して、僅か十年後のことである。
この新しき都は時代が変わりつつも、明治の世となるまで帝が座す王都となる。
だが――、実際に平安だったかどうかは、人それぞれであろう。
◆
師走三十日――、昨夜から降り始めた雪は王都を白く染め、内裏では桃と
なにしろ昨年は飢饉と二度の地震があり、内裏・清涼殿では不審火による火事と災難に見舞われ、
「
大内裏の外郭十二門のひとつ・陽明門にて、ともに守衛に当たる左近衛少将・藤原直之が話を振ってきた。
葛城宮親王は、三代前の帝の一の宮だった人物である。素行の悪さを問われて東宮になれず、謀反を企ているとされて
実際この事件のあと、帝が二度譲位し、治世が続かなかったことがある。
まず葛城宮親王の異母弟である先々帝の、寵愛していた梅壺の女御が内裏で病死した。これは里に下がらせるのを拒んだ先々帝の意思らしいが、死は
そして
しかし今度はこの先帝を病が襲い、即位して二年後に崩御する。まだ二十歳だっという。
この朝廷の混乱に天地の災異が引きずられたのか、それとも逆なのか、はたまた何者かの策略なのか定かではない。
「俺達には関係ないことさ」
少将が纏う従五位を示す
鉛色の
直之には関係ないとは言ったがこの男――、すでに厄介事に片足を突っ込んでいた。これが自ら招いたことなら仕方ないと諦めがつくものの、巻き込まれた形である上に、
それに王都では盗賊も出没しており、臣下を連れて大内裏に戻ってきた検非違使の
「藤原左近衛中将さま、主上がお召しにございます」
大内裏・
ほらきた――、と征之は思った。
彼も内裏に参内できる位階だが、公卿でも殿上人でもない。近衛府は、左近衛府の武官である。普通ならば武官が、帝に拝謁することはない。
しかしこの道理を説くほど、征之の神経は図太くはない。
征之はやれやれと嘆息し、纏っている
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内裏は北側に後宮・
帝が朝臣の前に
通常は昼御座と、それに面した簀子縁との間にある孫廂から、御簾が下ろされているのだが、このときは巻き上げられ、白地の
「――
帝は、孫庇に征之が座すとすぐに口を開いた。
「葛城宮親王さまの祟り――、でございますか?
「誠にそう思うか?」
どうやら帝はもうひとつの噂――、何者かによる呪いも疑っているようである。そんなことをしそうな人間といえば、
先々帝の中宮にして、亡き先帝の母后である。
――
先帝が崩御した際、彼女はそう言ったという。
当時朝廷で力を持っていたのは摂関家・
このとき藤原本家――、すなわち北院家は現在ほど力はなかったが、ひとりの姫が女御して七殿五舎は梅壺と呼ばれる
この梅壺の女御がのちに帝が内裏にて、死の穢という不敬を犯すことになる相手である。
ふたりの后妃はほぼ同時期に懐妊し、中宮・輝子は一の宮を、梅壺の女御は二の宮を産み、一の宮が東宮となり、十八歳にて即位する。
その帝が病で臥せり、二年後に崩御。母后・輝子は北院の陰謀だと叫んだ。
これにより、梅壺の女御が産んだ二の宮が践祚する。
この二の宮が、現在の帝である。
その後、中宮・輝子は東三条院と名を変えて内裏を出て、朝廷は北院家主導となった。
当主にして左大臣は、自身の
かつての摂関家・西院家の力は弱まり、東三条院は対抗策に姪を七殿五舎・
そう今上帝には、父である先々帝と同じようにふたりの后妃がいるのである。
しかし東三条院が現在の朝廷に口を出してきたのはこれのみで、彼女が呪いに関与しているかは不明である。
「恐れながらわたしは、陰陽師ではございませぬゆえ……」
征之は、そう言って低頭した。
「その陰陽師が、内裏に不穏な気が漂っていると申した。以前も申したが、朕は朝廷の混乱は避けたい。ゆえに頭中将ではなく、そなたを呼んだのだ」
頭中将・
帝が彼を避けたのはこの男が、東三条院を叔母とし、弘徽殿の女御の弟だからだろう。
しかも、藤原西院家の嫡子ときた。
「かつての摂関家が、呪詛に関わっていると仰せにございますか?」
「現在の西院家に、そのような力はあるまい。されど、再び朝廷を混乱させるわけにはいかぬ。根本を絶たねば、天はまたお怒りになろう」
「
原因を突き止め、内々に解決せよ――と遠回しにいってくる帝に、征之は思わず半眼になった。するとそれは当たっていたようで、帝がふっと笑った。
「そなたは類にない、
やはりそっちか――、と征之は軽く舌打ちをした。
鬼憑き――、そういわれる理由は、本当に鬼に憑かれているからである。その本人にすれば自分は列記とした鬼神だと怒るが。
この時代――、鬼や物の怪、怨霊の存在は信じられ、病の原因もこれらの仕業とされている。ゆえに人々は祓えの儀式を行い、身内が病となれば加持祈祷をするのである。
この鬼神――、もともと天界に近いところにいたらしいのだが、些細な失態をして地に落とされたらしい。人間側からすればそんなものを地上に落とされても迷惑なのだが、鬼神いわく、自分の姿が視える人間に憑き、徳を積めば、異界に帰れるという。
それが征之だったのだが、これが大内裏で噂になり、ついには帝の耳にまで届いた。
怪異があれば真っ先に征之が呼ばれるため、いまや本職よりも、こういった不可解な事件担当である。
『ふん、人間とは厄介な生き物よ』
昼御座の前を辞し、簀子縁を歩いていた征之の背後に六尺もある大男が立つ。
まだ師走だというに半裸で、腕に長い領巾を絡ませただけだ。
「内裏だぞ。紅蓮」
堂々姿を現した彼を、征之は一瞥した。
この紅蓮こそが、征之に憑いた鬼神である。
『気にするな。俺の姿は他の者には視えぬ。今回は俺の出番はなしのようだな』
口から牙を覗かせ、紅蓮はそういう。
「お前に頻繁に出て来られるお陰で、こっちは迷惑をしているんだ。そもそも憑く相手が違うだろうが」
陰陽師ならば紅蓮のようなモノを式神として使うらしいが、なぜよりもよって近衛武官である自分なのか――、征之はこの問答を何度も紅蓮と繰り返している。
『腕の良い陰陽師がいなかったのでな』
紅蓮はいつもようにそう笑った。
そんな二人の前に、黒袍の公卿が顔を強張らせて立っていた。
おそらく向こうには、紅蓮は視えていない。
向かい側から独り言を言いながらやってきた相手に、警戒しているかもしれない。
そそくさと去る公卿に、征之は嘆息した。
「見ろ。また妙な噂が増えるぞ」
そう言って振り返ると紅蓮は消えていて、征之は前髪を掻き上げる。
まったく、面倒なことになったものである。
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