七 元凶

 部屋を出ると、廊下がどうも煙臭い。何事なんだと警戒しながら明るい方──花畑のガラス窓の方を目指して早足に進んでいると、真横の扉から壮年の男が慌てた様子で飛び出してきた。全身に白い泡のようなものを山ほどつけていて、それがぼとぼとと周囲に落ちる。


「どうしたんだ、何だそれは」


 思わずイーレンが言うと、男は「突然機器類が火ィ吹きやがった! 全部だぞ全部!」と白いぼさぼさ頭を引っかき回して叫び、一瞬間をおいて「……あんた誰?」とイーレンの顔をまじまじと見上げた。


「すげえ黒髪。染めてんの? その目はカラコン?」

「いや、生まれつき」

「マジで? ちょ、ちょっと髪の毛一本分けてくれよ。いったん顕微鏡で見たい」

「ちょっとカセさん、今はそれどころじゃないでしょ。ていうかイーレンは僕のだし」


 玻璃が割って入り、イーレンは「すまない、急ぐから」と会釈して男の前を足早に通り過ぎた。四十は過ぎているように見えたが、彼の背丈はイーレンの肩ほどまでしかない。双子や翡翠が特別小さいのではなく、下層の住民はみな小柄なのかもしれない。


 空調は別電源というのは本当だったらしく、シェルター内が薄暗がりに包まれているなか、酸素を作っている花畑の窓だけが煌々と明るかった。逆光に照らされた紅色の頭を見つけて駆け寄ると、窓の前で翡翠と寄り添い合っていたユゥラが手を伸ばしてイーレンの袖を握ってくる。不安だったのだろうと肩を抱き寄せようとしたところで、彼女は玻璃に向かっていつになく強い口調で言った。


「イーレンは私のです」

「へっ?」と声が裏返ったイーレン。

「私のです。あなたにはあげません」


 玻璃の方を見ると、彼は愉快そうに笑い声を上げて言った。


「大丈夫だよ、そういう意味じゃないから」

「どういう意味ですか。イーレンは私のことが大好きなんです」

「だろうね。見てればわかる──瑠璃、こっち!」


 玻璃が廊下の奥に向かって手を振ると、白い泡まみれの瑠璃がこちらに走ってくるところだった。


「……おう、おまたせ」

「こりゃまた、盛大にやられたね」

「ミズキ姐さんのラボにGが出たっていうからよ、殺虫剤持って追いかけ回してたらこれだ」

「ジー、とは」


 ユゥラが尋ねると、瑠璃はニヤッと笑って言った。


「この世で一番嫌われてる古代虫だよ」

「毒虫なのですか」

「いんや、ただデカくて速くて飛ぶのが怖いんだと」

「それのどこが怖いのですか」

「知らね。あたし怖くないもん」


 瑠璃は肩をすくめ、泡をじっと見ているイーレンに「消火剤だよ」と言った。


「どうせまた博士がやらかしたんだろ。見に行くぞ」

「うん、こっちでもその話をしてたとこ」


 並んで歩く銀髪の双子は、立ち方も歩き方も全く違うのに、なぜか後ろからでもよく似て見える。今までイーレンの身近に双子のきょうだいというのはいなかったが、やはり何か通じ合う不思議な力のようなものがあるのだろうか。


 その双子の母親である博士の研究室ラボのドアを叩くと、内側から「……入りたまえ」という怒ったような声が聞こえてきた。本来なら自動で開くはずの扉の端に瑠璃が手を掛け、体重をかけて引き開ける。先ほどイーレンも玻璃の研究室で同じことをしたが、電気がなければかえって不便な扉である。


「で、今度は何やったのさ、母さん」


 玻璃が言いながら入室すると、博士は不思議な形状の椅子の上で座面ごとぐるぐる回転しながら、膝に頬杖をついてこれ以上なく不機嫌そうな顔をしていた。


「君たち、十五分遅かったな。もう少し早く来ていれば面白いものが見られたのに」


 博士はそう言って部屋の真ん中に鎮座している、ガラスの筒が真ん中に据えられた複雑な構造物を顎で指した。


「電圧を上げすぎたと気づいたときには少々遅かった」

「それでそこらじゅうの電子機器が火を吹いたと。どうするのさ」

らいサージプロテクタもなしにコンセントに直接差してる方が悪い」

「そんなもの普通つけないでしょ、地中なんだから」

「私のデバイスは全て無事だ」

「また自分だけ助かって……」


 ため息をついて腕を組む玻璃に、博士はフンと鼻を鳴らしてみせた。


「用がそれだけなら出て行ってくれないかね? 私は忙しいんだ」

「土下座行脚するから?」

「そんなわけないだろう。こいつの不具合の原因を探らねばならん。おそらくは──」

「ていうか、今ので声紋分析の機器も吹っ飛んだんじゃないですか? 神韻詠唱の研究はどうするつもりです?」


 背筋を伸ばし、口調を改めて本格的に説教を始めるつもりらしい玻璃がそう言った途端、博士のメガネの奥の目がまんまるになった。彼女は回る椅子からガタッと音を立てて立ち上がろうとし、まだ回っていたせいでつんのめって床に頭から突っ込みそうになりながら、近くにいたイーレンの上着の前見頃を引っ掴んだ。


「うわ!」


 一緒に倒れ込みそうになったがどうにか持ちこたえ、半分転んだような姿勢の彼女に手を貸そうとしたが、博士は勝手にイーレンの肩を掴んで立ち上がると、吹っ飛んだメガネを呆れ顔の瑠璃から受け取ってかけなおした。


「声紋……それだ!」


 そして博士は興奮を押し殺したようなささやき声で重々しく言った。そして「素晴らしいアイディアだよ、玻璃くん」と息子の肩を揺さぶり、うろうろと薄暗い研究室の中を歩き回る。


「いいね、実にいい。実験のしがいがある」

「何を思いついたんですか」と玻璃。

「それは見てのお楽しみだ。さっそく防音室へ行くぞ、私のモルモットくん! あまり使わない機器だからね、おそらく電源には接続されていないと思う。十中八九無事だろう」


 そう言って博士はイーレンの肩をがっしりと掴んだ。背丈は瑠璃より少し低いくらい、運動しないせいか体型も彼女より華奢な印象が強いのに、驚くほど力が強い。そして目が座っている。


「ちょっと待ってください、イーレンは僕が先に予約してるんです」


 すると玻璃が割って入った。博士が「いいじゃないか、声紋を取るくらい君も同席すればいい!」と華やかに笑う。瞳孔が全開でなければ美人に見えたかもしれない。


「ダメですよ、僕が先手を取らないといけないんですから!」


 玻璃が焦った声を出す。博士は訝しげに眉を上げた。


「なぜだい? ケチな科学者は成長しないぜ?」

「博士に認められて、僕も上層へ行きたいんです!」


 玻璃が大きな声で宣言した。そこは内緒じゃなかったのか、とイーレンが思っていると、博士はきょとんとした様子で首をかしげた。


「行けばいいじゃないか。私は止めないが」

「え?」

「六月には十八だろう。そろそろ成人しようという子を執拗に腕の中に囲い込むほど、私が過保護な親に見えるかね?」

「そ、そうですか……」

「それで、同席するかね?」


 どこか蠱惑的な笑みでそう問いかけられた玻璃は、「します」と首肯してぐりんと首をイーレンに向けた。様子のおかしい座った目が二組もこちらを向いて、イーレンは思わず後ずさった。とそこにユゥラが立ち塞がる。


「だめです。イーレンはあげません……」

「ユゥラ」

「心配ない、少し歌ってもらうだけだ。彼には傷一つつかないさ」と博士。

「信じられません。モルモットとはなんですか? イーレンをご自分のものにしようというなら、私は」

「古代ネズミさ。ふわふわで丸っこくて、つぶらな瞳が可愛いんだ」

「イーレンを可愛がってよいのは私だけです」

「え、ユゥラ」

「束縛の強すぎる女は嫌われるよ、ユゥラくん」

「……そうなのですか?」


 彼女たちはいったい何の話をしているのだろう。イーレンが瑠璃と翡翠へ目を向けると、二人はそろって半眼で首を振った。瑠璃が「ほっとけ」と深いため息まじりに言う。


「何の意味もねえよ、マジで」

「そうなのですか?」


 瑠璃の言葉にユゥラが反応した。博士が横から口を挟む。


「そうそう、完全な無駄話だ。こんなことをしている場合じゃない、さっさと電源を復旧して、防音室に行くぞ!」

「そんなに早く復旧できますかね……ブレーカーが落ちただけじゃなさそうですけど」


 翡翠が言うと、博士は「どうにかするんだよ」と座った目のまま鼻息荒く言った。


「何としても竜声スピーカーを満月までに実用化にこぎつけたいんだ。今日の月齢は? もうあまり時間がないぞ!」

「満月? なぜです」


 そう翡翠に問われ、早くもイーレンを引きずって研究室から出ようとしていた博士は、視線だけ振り返って言った。


「理由は解明されていないがね、満月の日には竜の活動が活発になる。そこで検証だ!」


 満月の日に儀式を執り行っていたのには、そんな理由があったのか。それを知って、イーレンは嫌な気分になった。何を検証するのか知らないが、丸い月はもう見たくない、と漠然と思った。


〈第七章 了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

多層森林 綿野 明 @aki_wata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画