第2話

 右京は先月に発生した桂川の氾濫で多くの人が住む家を失っていた。

 篁の屋敷は浸水こそは免れたが、二つ先の辻にあった家は流されてしまっており、未だ再建の目処は立っていなかった。何度か朝廷の役人が来て視察などは行ってはいたものの、それっきり役人が姿を現すことはなかった。朝廷のすべてが腐っているというわけではないのだろうが、一部の役人たちは私服を肥やしているという噂もある。もし自分が役人となったら、まずはそういった不正を正そう。篁はそのように考えていた。

 まだ泥濘ぬかるんでいる場所のある荒れた道を歩き篁が屋敷のすぐ近くまで来ると、辻に牛車が止まっているのが見えた。牛車の引いている屋形には見覚えのある家紋が描かれている。

 篁は早歩きで牛車へと近づいていくと、牛車の脇に居た背の低い男へと声を掛けた。

阿母あも

「これはこれは篁様。お待ちしておりました」

「なにかあったのか?」

「乙姫様と共に調べ物をするというお約束では?」

「ああ、その話か……」

 篁は気が重かった。頼りにしていたはずの浄浜が頼りにならないという話をこれからしなければならないのだ。

「牛車にお乗りください。乙姫様がお屋敷でお待ちになられております」

 阿母はそう言うと、篁を牛車に乗せて牛飼童へ藤原の屋敷へ向かうように指示を出した。

 考えたいことが沢山あった。そのため、篁はあまり他のことを考えている余裕はなかった。これから向かうのは真己未の屋敷である。真己未の屋敷ということは、父である中納言三守ただもりの屋敷へと向かっているということだった。

「どうしたものか……」

 篁はブツブツと独り言を言いながら、直垂の袖に腕を入れて腕組みをする。

 すると手に何かが触った。

 何かと思い、袖から手を出してみると、一枚の札が一緒に出てきた。

「なんだ、これは」

 札には何やら読めないクネクネとした文字が書かれていた。その札には見覚えがあった陰陽道で使う札のはずだ。なぜ、陰陽道の札が袖に入っているのだろうか。そう思いながら、札を裏返しにしてみる。すると、そこには墨で文字が書かれていた。

『戌の刻、東三条殿』

 札の裏には確かにそう書かれていた。東三条殿というのは、藤原良房の屋敷のことである。この札を篁の袖に入れたのは刀岐浄浜だろう。なぜ、このような回りくどいことをするのか。篁はますます浄浜に苛立ちを覚えていた。

「着きました、篁様」

 外から阿母に声を掛けられて、篁は我に返った。考え事をしているうちにいつの間にか着いていたようだ。

 牛車の屋形から降りた篁は、外の景色が違うことに疑問を覚えた。

「ここは……」

有統ありとう様のお屋敷にございます」

 藤原有統は中納言三守の長男であり、真己未の兄でもあった。阿母によれば、真己未は普段は父である三守の屋敷ではなく、兄の有統のところにいることが多いとのことだった。今の時間は有統は朝廷の仕事のために大内裏へ行っているため留守であるという。

 あるじのいない屋敷に入っても良いものなのだろうか。そんな気持ちになりながらも、篁は阿母に従い屋敷の中へと入っていった。

「こちらにございます」

 そう言われて篁が部屋に入ると、部屋の奥には御簾が降ろされているところがあり、その奥に人影が見えた。その人影は女性であることまではわかったが、御簾のせいで顔がはっきりと見ることができない。

「篁様、お待ちしておりました」 

 御簾の向こう側から声が掛けられた。その声は紛れもなく、真己未のものだった。

 しかし、真己未はあの夜に会った時のような活発な女性という姿ではなく、文机の前で筆を執るしとやかな女性という雰囲気がある。

「どうかなさいましたか」

 篁の雰囲気を察したのか、真己未が言う。

「いえ……。当てにしていた人物があまり当てにならなく……」

 歯切れの悪い口調で篁は言うと、小さくため息をついた。当てにしていた人物というのは、陰陽寮の刀岐浄浜のことであった。浄浜は篁に、危険なことに首を突っ込むことはないと言い、気が乗らないといって断ってきたのだ。

「まあ、そうでしたか。では、我々でやるしかないのですね」

 真己未はどこか楽しげな口調で言うと、御簾をあげて篁のいる方へと姿を現した。

 その姿を見た篁は、ハッとさせられた。

 あの晩と化粧が違っていたのだ。あの晩の真己未は口の周りに阿母が施した魔除けの化粧をしており、その化粧が落ちた時は少女のような顔をしていた。しかし、いま篁の目の前にいる真己未、どこぞの姫のように雅やかで美しかった。

「篁様、どうかなさいましたか?」

「あ、いや……」

 目の前に現れた真己未のことを見つめていた篁は、声を掛けられて我に返った。

 まさかあの晩とは違った真己未の顔に見とれていたとは言えるわけもなく、篁は口ごもると咳払いをしてから仕切り直しと言わんばかりに口を開いた。

「本日、戌の刻に東三条殿へ参ります」

「そこに冥府の扉があるのですか?」

「いえ、まだそこまではわかりませぬ。ですので、今宵は私がひとりでその場へ向かおうかと」

「わたくしも行きます」

「いや、しかし……」

「篁様ひとりで行かせるわけにはいきませぬ」

 その真己未の口調には強い意志のようなものが感じられた。おそらく、来るなと言っても真己未は来てしまうだろう。仕方がない。篁は無言で頷いた。

「なにがおかしいのですか、篁様」

 そう言われて篁は初めて気がついた。自分が笑っていたということに。

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平安奇譚 異聞小野篁伝 大隅 スミヲ @smee

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