さいごに、お前

 お前に、人間のような名前がつくことはなかった。その正体は誰も知らないからだ。ただ、便宜上の、人間とは違う存在として、対象として指し示すための目印として、お前の呼び名がついた。お前にはそれで十分だった。

お前が生まれた瞬間は、肉塊と呼ぶにはとても小さく、どちらかといえば皮のような、肉芽のような存在だった。お前は何処かの子宮内から剥がれたのか、それとも体内から排除されるべき腫瘍だったのか。とにかく、お前が、ある女から生まれ出されたのは間違いないことだ。

お前には、いろんなものが欠けていた。だからお前は色んなものを求めようとした。でも、何をすればいいのかまでは分からなかった。頭も手も足もないお前は、ひたすらにわずかな肉片と血の中で乾いていった。

お前は、外側の人間の皮をかぶって、その記憶の中で、夢の中のみでしか生き続けることは出来なかった。そして外側の人間の記憶や夢に棲む代わりに、代償として外側の人間の記憶が抜け落ちやすくなった。記憶は消えるわけではない。だから、ほんの時々、『お前』も知りえない偶然の機会に、外側の人間は、意識上は人間として動くことができた。

でも、お前が何をしても、結局外側の人間以上にはなれない。

しかし、お前は突然満たされた。お前以外の、外側の人間たちが願いを、お前の存在を望んでいたからだ。

「食べてほしいの」

だからお前が肉を食べたのは、願われたからにすぎない。好きという感触は、脳を持つ外側の人間のものだ。肉を食べたい、という願いを叶える、自分の存在証明のために、という衝動だけが『お前』を動かしていた。

望まれれば、何でも食べたいと思った。『お前』が、『お前』であるために。

名前も、家族も、友人も、他に何もいらない。『お前』というものが望まれる、確かな居場所さえあれば。そうすることで、『お前』は誰かしらの中で、ずっと生きていた。


『お前』は、ある女から生まれた。

肉芽のような、種のような形をしていた。お前は、乾いた心を埋めようと、目の前にあるものを、血肉を吸って、成長した。『お前』は植物でも虫でも魚でも鳥でも獣でも、人間でもない。

人喰いの、血肉を食べる、化け物だ。


『お前』は、そうしてあなたの脳内で生きている。今も、血肉を求めている。誰かの願いと約束のために。『お前』が生き続けるために。細い腕が伸びる。重い足を引き摺って、次の場所へと向かっている。

今、『お前』の顔が、あなたには見えている。

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ちぎりごと 藤井杠 @KouFujii

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