第16話 ナタールの荘園屋敷《マナーハウス》

 セレファイスの女王クラリス陛下が離宮になさっていらっしゃるナタールの荘園屋敷マナーハウスに来る道すがら、灰色猫のムル大尉が、

「常世、フランス北部にソンム河というのが流れているだろ。こないだの《第一次世界》大戦で主戦場になったんだが、英連邦だけで十万、仏軍で五万、独軍で十六万の死者・行方不明者がでただろ? クラリス陛下はこのうち、英連邦軍将兵十万を、の世界〝幻夢境〟へ転移させたんだ」

「そんなことが……」

「もともと女王はコンウォールの聖女だ。何らかの代償を踏んで、彼らを救い、セレフィスに移住させたと聞いている」

 ムル大尉は女王の応接間には入らず、ロビーに下がりました。


 女王クラリス陛下との会話は、これまで訪ねた四腕巨人ガクの地下回廊都市や、猫神バステト族の都市ウルタール、そしてセレフィスで面会した大神官たちと同じように、〝夕映えの都城〟カダスの場所を特定することができず、私が期待した応えは得られませんでした。そして同じように、神々の領域に足を踏み入れてはならないと諭されるに留まったのです。

 ただ接客間の卓を挟んだ椅子で対面しているティアラの貴婦人が立ち上がって、私のところへやってくると、自らの額を私の額に当てて、

聖女片帆かたほ、貴女は、ハデグ=クラ山での満月の宴で神々に囚われた大賢者エイボンの末路を御存じ? かつて私はナイアルラトホテップという|〝旧支配者〟の一柱に出会ったことがあります。これは、彼が私に送った思念テレパシー画像――」


 深淵のなかで篝火が照り出したのは数百メートルにも及ぶ巨大な、たこのような軟体生物で、それを囲んで、ムンクの「叫び」の男にも似た、人がたではあるのだけれども半透明な白い軟体生物が横笛で、非常に単調な旋律の曲を奏でながら、ゆらゆらと舞っている。――その列の中に混じって、虚ろな眼差しでやはり横笛を吹きながら舞う老人の姿が望めました。


「巨大な蛸のような生き物は旧神たちによって知性を奪われた魔皇アザートス、ムンクの絵の男のようなはやはり知性を奪われた眷属神たち、そして唯一いる人間こそ、かつて幻夢境随一の博識を歌われた、大賢者エイボンの成れの果てです」


「どうしてこんなことに?」


の二つ名をもつナイアルラトホテップは、旧神から唯一知性を剥奪されることを逃れた一柱で、他の旧支配者たち――知性を剥奪された魔皇以下の旧支配者層

――のメッセンジャーを名乗っていますが、実際のところは軍艦や航空機のような兵器として扱っている。……生ける屍と化した魔皇ですが、その通力はいまだに強大で、カダスに住まうとされる数多の神々すら足元にも及ばず、カースト底辺層の神格に過ぎません」


「つまるところナイアルラトホテップこそ、旧支配者たちの陰の盟主で、全能たる旧神に抗う最後の一柱で、彼が再構築した旧支配者世界のカースト内情が、旧神に漏れるのを警戒しているということでしょうか?」


 女王陛下はためらい気味に、

「かの旧支配者は私の前に、思わず見とれてしまうような、若い黒衣の貴紳の姿で顕現いたしました。そして私に、できる限りをのぞかぬようにと忠告したのです」


「なぜのぞいてはならないのでしょう?」


「のぞくなと言われればのぞき、語るなと言われれば語りたくなるのが人のさがというもの。――かの旧支配者は、賢者や聖女に〝禁忌事項〟を提示して枷とし、違反者を狩るのです」

「なんのため?」

「彼にとってのとはゲームであり、愉悦なのだと判断されます」


「お話しが真実だとすると、クラリス陛下の御身に禍が降り注ぐのでは?」

「そうかもしれません。ですがふと、幻夢境に転移してきた聖女たちのなかで、もっとも影響を与えそうな貴女にこそ、私がもつ知識をお教えすべきかと、ふと考えましたの」


 お茶会がお開きになったとき、セレフィスの女王が、

「聖女片帆は今回の冒険で通力を弱めている。常世への帰還転移をなさるならば、お連れの方が持っていらっしゃる〝銀の鍵〟の使用が必要でしょう。それから、近道をお使いなさいな」


 接客室の四方の壁にはいくつものドアがあり、クラリス陛下がその一つの前にお立ちになり、〝銀の鍵〟所持者の吉田先生に示されます。鍵穴にそれが差し込まれ、吉田先生、寧音さんに続いて私が退室しました。


     *

 私たち三人が戻った常世の場所は、事もあろうに、岐門くなと高等女子中学校の校長室でした。黒いスーツにダウンテール姿の美女・乃東ないとう校長先生が、

「お二人に私は、警告いたしましたでしょ?」


 ――ウェッジウッドのティーカップを手にしたその人の笑顔がなんか怖い。


 私が肩をすぼませていると、寧音ねねさんもつられて萎縮していました。校長室の壁にかけられた日めくりカレンダーを見るに、今回の大冒険が、こちらの世界では一晩だったことが判ります。


 ただ吉田先生はいつものように飄々として、頭を掻きながら、

「まあまあ、校長先生、不可抗力の事故ついでのレクリエーションといいますか、我々のプライベートなことですし」

「今回だけは特別に見逃しましょう。――次はありませんからね」

 こうして私たちは逃げるように校長室から退室したのでした。


     *


 岐門高等女子中学校古典代用教員として派遣されていた内務省神社局および文部省宗教局の合同特務室捜査官・吉田兼好氏が、駆逐艦「峯風みねかぜ」彼の町の沖合で生じた一連の事件についての詳細を報告が挙げられた。

 宇宙の彼方を起源とする神々を蕃神ばんしんといい、大きくは旧神と旧支配者とに分けられる。かつて旧支配者の魔皇アザートスは旧神を打倒して、その座を奪わんとしたが逆に鎮圧され、知性を剥奪されたうえに、各辺境星域に封印された。このうち、地球の海底に封印された旧支配者をダゴンという。岐門町沖合で、駆逐艦〝峯風みねかぜ〟の陸戦隊端艇要員十名を巻き込み、再び海中に消えた新島こそ、ダゴンの宮廷にほからない。ダゴンの奉仕種族が半魚人マーマンだ。

 今まで大人しくしていた半魚人どもが、人間の婦女子をさらい繁殖行為をするなど急に活発化したのは、主人であるダゴンをけしかけた者があったからだ。それは唯一知性剥奪を逃れた〝這い寄る混沌〟の二つ名をもつナイアルラトホテップという旧支配者の存在である。

(『大日本帝国海軍極秘文書・第S020901‐2330‐0002号』より)



ナタールの荘園屋敷マナーハウス

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聖女事変 五色泉《ごしき・いずみ》 @IZUMI777

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