02-1. 二橋茜の災難

 ミーティングが終わり、食事処のパントリーに戻ると悲惨な光景が広がっていた。呼び出しのボタンを押しているのだろう電光掲示板には、番号がいくつも表示されており、「いつまで待たせるんだ!」と怒りの声が飛び交っている。


 二橋茜はパントリーにいた。


 ホワイトボードに貼られているものに変化はなく、茜がなにも仕事をしていなかったことがわかる。


 ……なにしてるの?


 リカは言葉を失っていた。


 状況の理解が追いつかない。


 自分なら余裕でできると見栄をはっていただけにしては、あまりにもミーティング前の状況と料理出しが変わっていなかった。変わっているのは、食事処から響き渡る怒りの声と鳴りやまない呼び出しボタンの音だけだ。


 異常な光景だった。


「二橋さん? ミーティングに参加している間は任せておいて大丈夫だって言ってましたよね?」


 友香は呆れたように言葉を口にする。


 友香に声をかけられ、茜はゆっくりと振り返った。


 血色が良かったはずの顔色は青ざめており、目には光がない。感情が抜け落ちたようだった。


 意気揚々と名乗り上げたとは思えない。


 茜はなにを思ったのか。急に足の力が抜けたかのように、その場に座り込んだ。まるで人に会ったことに安心をしたかのようだった。


 ……気持ち悪い。


 リカは得体のしれない恐怖感を抱いた。


 反射的に後ろに下がってしまい、背中を壁にぶつける。


 ……なにこれ。意味がわからない。


 そうしている間にも呼び出しボタンは連打され、電光掲示板には番号が次々に光る。怒号が飛び交い、いつ、パントリーに乗り込んでくるか、わからない状況だ。


 ……あれは、人の声?


 頭に響く妙な声だった。


 地面を這うような低い声も混ざっている。


 罵詈雑言に対する拒否反応ではない。この場から逃げなければいけないという本能を刺激するような声だった。


 それは聞いたことのないような声だ。


「……あの、先輩」


 夏鈴はリカに声をかけた。


 その声は恐怖で震えていた。


「番号、全部、光ってるんですけど……」


 夏鈴の言葉は真実をそのまま口にしただけだ。


 電光掲示板は番号が光る。席に置かれている呼び出しボタンを押された時に、反応するような仕組みになっている。


「は?」


 リカは理解できなかった。


 反射的に視線を電光掲示板に向ける。


 それは夏鈴が言ったとおり、すべての番号が光っている。


 ……悪戯? それにしたって、数がおかしい。


 ありえない現象だった。


 ミーティングの時間になる前に半数の客が退席をしている。一方的な叱責ばかりのミーティングをしていた時間は十五分あった。その間に何席か帰っていてもおかしくはない。


 常識をひっくり返されたような気分だった。


「……い、いないのよ」


 茜は泣き出しそうになりながら、ようやく、口を開いた。


「こんなところで、食事なんかできないって! 怒鳴って、逃げるように帰ったのよ! 全員!」


 茜の言葉に対し、誰も頷けなかった。


 全員、食事処から出ていっているはずがない。なぜならば、呼び出しボタンは鳴り止まず、怒号も止まらないからだ。


 そこには誰かがいるのは、全員、耳にしている。


 誰もいないところで鳴るような機械の不調は同時には起きないだろう。


「それどころか! 変な、怖い、不気味な! なにかがたくさんいて!」


 茜は目にしてしまった光景を思い出したのか、頭を自分の両腕で隠すように蹲った。


「た、たくさん、あいつら、あいつらが、呼んでるのよ!」


 茜は恐ろしい思いをしたのだろう。


 怒鳴り散らして食事を放棄して帰る客の罵詈雑言よりも、恐ろしいものが食事処に入り込んでいる。


 恐怖は人の本性を露わにする。


 上司に媚びを売り、気に入られる為なら手段を選ばない性格の悪さは鳴りを潜め、恐怖に震えるか弱い人間がそこにいた。


「くだらない嘘は――」


 友香が口を開いた途端、電話がけたたましく鳴り響いた。


「はい。食事処、田村です」


 友香は電話を取る。


 しかし、不快そうな顔をしながら首を傾げた。


 暴言を吐かれたのならば、反射的に謝罪の言葉を口にしているはずだ。妙な顔をして首を傾げるような対応は、普通の反応ではなかった。


「……鈴木さん。これ、聞き取れますか?」


「はい?」


 リカは受話器を受け取る。


 頭に響くような奇声音が鳴り響き、時々ノイズ混じりの低い音が混ざる。低い音は言葉のようにも感じられたが、言葉として聞き取ることができない意味のわからないものだった。


 リカは反射的に受話器から耳を離した。


 長時間、耳にしていい音ではないと本能的に判断していた。


 ……壊れた?


 それにしてはおかしい。


 リカは困ったように友香に視線を送った。


「田村さん。電話の不調をインカムで伝えませんか? 優先するべきなのはアレですよね」


「そうですよね。――よし、切りました。音は鳴ってないですか?」


「普通は電話を切れば静かになると思いますが……」


 リカは恐る恐る受話器に耳を当てる。


 電話は切ったはずだ。しかし、あいかわらず、激しい奇声音とノイズ混じりの低い音が聞こえてくる。


 リカは怖くなり、受話器を元の場所に戻した。

 その途端、電話はけたたましく鳴り響く。


「……これ、やばくないですか?」


 リカは身の危険を感じた。


「なにを言っているの。やばいのはこれからよ」


 友香は震える手でインカムのボタンを押した。


「田村です。食事処の電話が故障しました。食事処内の異常が起きているので点検します。誰かヘルプに入れますか?」


 友香は事実を簡潔に告げた。


 インカムは正常に作動している。リカの身に着けているイヤホンからも友香の声が聞こえていた。

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