01-6.

* * *



 リカたちは茜を食事処に置いたまま、慌ただしく、一階の事務室に駆け込んだ。


「後半ミーティングを始めます。本日の宿泊状況の確認から行います」


 フロント業務を主に担当している多田太一主任は、死んだ魚のような目をしながら、淡々とミーティングを進めていく。リカは配られた宿泊記帳のコピーに視線を落とす。


 ……閑散期じゃないのにキャンセルが多い。


 違和感を覚える。


 多忙期となる長期休暇とまではいかないものの、週末となれば満室になっていてもおかしくはない。


 しかし、キャンセルの赤文字が異様に目立つ。


 すべて、三日以内にキャンセルの電話がかけられているのも、異常だった。宿泊日の三日前からキャンセル料は全額発生する。その為、よほどの事情がなければ宿泊日の三日以内にキャンセルをする人は現れない。


「宿泊されるのは四階のデザイナールーム四部屋だけになります。他は当日の受け入れも可能にしますので、全部屋、掃除を徹底するようにしてください」


 太一は居心地が悪いのか、視線を紙から外さない。


 ……前半でなにかあったみたい。


 リカは太一の様子から察する。


 ミーティング最後に待ち受けているのは、社長の嫌味か、耳にするだけで心が壊れそうになるほどの罵詈雑言か。どちらにしても、社長の言葉はこの場にいる人間の魂を傷つけ、心に深い傷跡を残し、それを容赦なく踏みつけられるだろう。


「401号室、田村様。お一人。エビアレルギーがありますので、夕食は伊勢海老ではなくアワビになります」


 太一は宿泊記帳に書かれた内容を読み上げていく。無意識のうちにリカは赤ペンを取り出し、エビアレルギーに丸をつけていた。


 習慣は恐ろしい。


 朝七時から出勤をしているリカは、よほどの事態が起きない限り、十七時に退社する。それでも、自分が関わっていることのように印をつける癖が身についていた。


「402号室、山田様。新規の方です。お二人。職業が動画配信者とのことですので、撮影を頼まれたら笑顔で応じてください。立入禁止の場所を見たいと言われた場合のみ、必ず、インカムで指示を仰いでください」


 太一の言葉に耳を疑った。


 ……新規だ。


 三日前にキャンセルとなり、新たに予約が入ったのだろう。それは珍しくはない。当日、宿泊予約が入ることもあるのだから、おかしくはない。


 しかし、なぜだろうか。


 ……本当になにかがあったの?


 職業が動画配信者というのは偶然だろうか。妙な引っ掛かりを覚えつつ、リカは紙から目を逸らさなかった。


「403号室、山下様。お一人。特記事項はありません。405号室、村田様。お一人。リピーターの方です」


 太一は淡々と読み切った。


「本日の基本理念の暗唱は省略させていただきます。社長、お話をお願いいたします」


 太一は体の向きを変える。

 それに合わせるように、その場にいた全員が社長と向かい合うように姿勢を正した。


 異様な光景だ。しかし、誰もがそれを当然であると捉えている。


「ミーティングは全員参加が最低条件です。白崎支配人が休んでいるとはいえ、全体の怠けが酷く、社長として残念に思います」


 社長は失望したと言わんばかりに語り始める。


 なにもかも従業員の失態だと言わんばかりの言葉は、心の傷を作る。


「十二単衣の館は日本の良き文化を体感していただける癒しの旅館です。それなのに、これほどまでに仕事のできない社員たちでは評価が落ちるのは当然ですね」


 社長は経営者だ。


 社長は絶対的な支配者だ。


 全国各地にあるグループ旅館を維持するのは、所属をする社員の役目であり、社員は社長の方針を忠実に守らなくてはならない。


 それは悪夢のよう時間だった。生きたまま地獄に突き落とされ、そこで人間のような生活をしろと言われるのは理不尽だ。しかし、社長は当然のようにそれをしてしまう。


 社長にとって従業員は人間ではない。


 代わりのきく都合のいい駒だ。壊れてしまえば、勝手に辞めていく。駒の補充は四月の新入社員の入社を待てばいいだけだ。世間では不況にも負けず、多くの新卒を確保している優秀な企業として映ることだろう。


 なにもかも、社長の理想通りに駒は進む。


 それを邪魔されるのは許せなかった。


「グループの中でもっとも足手まといとなっている自覚をしてください。本社がこれではグループの恥でしかありません」


 社長は淡々と告げる。


 全国各地に広がりつつある旅館の名を汚されたと言わんばかりの態度を示し、その原因は、十二単衣の館で寝る間も惜しまずに働いている従業員たちが怠けているからだと決めつけ、叱責をする。


「貴方達が社員でいることが恥ずかしくてしかたがありません。自分の見る目がなかったと反省はしていますが、ここまで足手まといのままで居続けられるとは、誰も思わないでしょう?」


 社長の言葉に対し、反論を口にできる者はいなかった。ミーティングに参加している全員ができるのは、存在価値を否定するような社長の言葉に対し、反射的に零れそうになる涙を堪えることだけだ。


 泣いたところでなにも変わらない。


 必死に働いていると訴えたところでなにも変わらない。


 ……顔が、見えない。


 頭がぼんやりとする。


 現実逃避をしなければ耐えられなかった。


 リカは生気のない目で社長を見る。


 社長はリカを見ない。


 社長にとって、退職が決まっている従業員は人ではなく、役にも立たないまま逃げ出したろくでなしのゴミでしかない。


 ……黒い靄が、邪魔だなぁ……。


 リカの目には黒い靄が視えていた。


 それは社長の顔を覆い隠し、表情がはっきりわからないようにする。手のようにも視える靄は社長の体にまとわりつき、なにかを訴えているようだった。


 それに恐怖を抱けない。


 恐ろしいのは得体のしれないなにかではなく、従業員を使い捨ての駒としか見ていない社長だ。


「口コミを確認してないでしょう?」


 社長の言葉を遮る人はいない。


「悪質な投稿が相次いでいます。早急に対応をさせましたが、間に合わず、本日は満室から四室に激減しました。それほど悪質な嫌がらせをされている原因は、十二単衣の館に対する逆恨みです」


 社長の機嫌が悪い原因はそれだったようだ。


 悪質な嫌がらせとしか認識できない内容の口コミの投稿が相次いでいるのだろう。社員の誰もが気にしていなかった。気にする心の余裕がなかった。

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