01-4.
「ご心配ありがとうございます。山下様の旅館での日々に彩りを添えることができるように努めさせていただきます。どうぞ、私たちのことはお気になさらず、心行くままにお過ごしくださいませ」
リカは反射的に頭を深く下げた。
床に頭が触れるのではないかというほどに、丁重な挨拶を口にしたのは深い理由があるわけではない。
ただ、そのように振る舞うのが正しいのだと、叩き込まれた成果である。
「え、あ、うん。……こんなこと言いたくないけどさ。お姉さんが担当してくれて嬉しかったんだよ。だから、無理して辞めてほしくなかったんだよ」
女性は困惑していた。
それでも、思いの丈を口にした。
「お姉さん。無理はしないでね」
女性はどこまでも優しい人だった。
そんな言葉は退職をしたいと打ち明けた両親を思い出す。早く辞めてしまえとリカのことを思いながら、リカの背中を押してくれた両親も女性のように異常な職場で働いているリカの身を案じてくれたのだろうか。
「心遣いありがとうございます。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。失礼いたします」
リカは挨拶を済ませて、席を離れる。
客の気持ちが嬉しいと思う反面、それどころではない状況になっているのを思うと気分がどん底から這い上がることができなかった。
「申し訳ありません。申し訳ありません。私の采配ミスです。申し訳ありません」
パントリーに戻れば、友香が狂ったように同じ言葉を繰り返していた。
……荒れるな。
リカは思わず身構えてしまう。
友香が過酷な現実に直面しているのは、リカも知っている。
他の社員よりも長時間労働と連続勤務を強いられ、給料はほとんど変わらず、責任ばかりが増えていく。
そのストレスは友香の心を侵食し、誰よりも親切で優しくて思いやりのあった友香ではなく、他人に牙を向け、理不尽な物言いで怒鳴り散らしながら、自分は被害者だと訴える化け物に変わった。
友香は変わってしまった。
それを誰も気に留める余裕はなく、変わってしまったことを嘆く余裕がある人もいない。
リカは友香の標的だった。
それは、まだ仕事に慣れていない新入社員の夏鈴に同情し、庇ってしまったことよるリカの自業自得だった。
……もう庇う気力もないんだけど。
リカは限界だった。
夏鈴を見捨てることだとわかっていながらも、逃げ出してしまった。
「山田さん。配膳はどこまで終わっているか、引き継ぎをしてもらってもいいですか?」
リカは呆然としている夏鈴に声をかける。
夏鈴は入社して半年の新入社員だ。夏の多忙期で散々な目に遭い、泣いているのをリカは知っていた。
「山田さん」
リカは優しく夏鈴に声をかける。
以前、十一時三十分に開けなければいけない食事処の準備が間に合わなかったことがあった。その時、夏鈴は一人で準備をしていた。リカは十二時の出勤であったが、夏鈴のことが心配だった為、三十分以上も前に出勤をした時のことだ。
その時、リカは夏鈴の為に注意をした。
準備が間に合わないとわかっていたのならば、早めにインカムで連絡をして助けを呼ぶことと、オープン時間にはなにをしてでも間に合わなければいけないというと伝えた。
その時、夏鈴は泣いてしまった。
それ以降、リカは夏鈴に対してどのように対応をするべきなのか、頭を抱えた。リカは夏鈴の甘さを知っている。だからこそ、リカが退職した後、先輩たちに嫌がらせを受けないように厳しく育てなければいけなかった。
リカにはそれができなかった。
泣いている夏鈴を前にしてなにもできなかった。
すべての責任をリカが代わりに背負った。大急ぎで準備を手伝い、食事提供開始時間を遅れてしまったことを必死になって謝り続けた。土下座を求められた時には、大きな声で謝罪の言葉を口にしながら大げさまでに土下座をした。
後輩を守る為にならば、リカは手段を選べなかった。
その姿を見た夏鈴の心に変化があったのは、不幸中の幸いだった。
……ダメか。
夏鈴は動けない。
インカムから鳴り響く社長の罵詈雑言に耐えきれず、思考が止まってしまっている。
それでも、泣いていないだけ成長したのだろうか。
「山田さん」
リカは優しく名を呼ぶ。
リカが教育係として担当している後輩、佐藤美香は十三時出勤の為、事務室にいるだろう。おそらく、硬直状態の花鈴に対して適切に対応してくれるはずだ。
「山田さんが悪いわけではないですよ。全席埋まっている状況で三人で回すのは、無理があります。でも、それができないと私が辞めた後に山田さんが困りますよ」
リカは夏鈴に声をかけながら、視線を友香に向けた。
……泣けばいいってもんじゃないでしょ。
友香は泣いていた。自分だけが被害者のような顔をしているのに腹が立つ。
心の中で文句を言いながら、次に提供する料理の準備をする。
従業員の都合はお客様には関係ない。
料理の提供が適切ではなければ、お客様はクレーマーに変貌する。
当然の主張をするだけではなく、罵詈雑言を交えた脅迫まがいの暴言を吐かれ、理不尽なことを要求されても、必死に謝罪をしなければいけなくなる。
客が土下座をしろといえば、謝罪の言葉を口にしながら、床に額をぶつける勢いで土下座をしなければならない。
この職場で働いていく限りは避けては通れない謝罪の仕方だ。
それが間違っていると言える人はいない。
役職者は口を揃えて、客が満足をして帰ることができるのならば、土下座くらいするべきだと言う。リピーターを得ることができるのならば、罵詈雑言も体を触られるのも、下心しかない下品な言動に巻き込まれるのも、業務の一環だと笑って言われたことをリカは生涯忘れることができないだろう。
それが当然だと言ったのにもかかわらず、被害者面で泣いている友香が歪な化け物に見えた。
この場には正常な人は誰もいない。
それが妙に恐ろしく思えた。
「鈴木さん。社長が来ます」
友香は泣きながら告げた。
その言葉を聞きながら、次の提供をする料理の席を確認していたリカの視線が従業員用のエレベーターに向けられた。
エレベーターの表示が一階と示した途端、動きが止まり、矢印が上を向いた。
「え? ……ミーティングに行くと伝えなかったのですか?」
リカの声が震える。
エレベーターが止まった。そして、当然のように扉が開いた。
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