恨み晴らすまで呪いは途切れない

佐倉海斗

01. ある男の死

「……死ねというのか。あいつらは。俺に死ねと……」 


 目に正気がない男性は小さな声で独り言を言いながら、酒を煽る。空になった空き缶は部屋中に溢れ、あちらこちらにゴミが散乱している。


 掃除をする気力すらない日々は、男性の日常を侵食し、ゆっくりと時間をかけて確実に壊していった。


 まともに食事すらとれていなかった。


 自炊する気力など遠い昔の話であり、今では食事を買うことすらも億劫だった。酒と煙草だけは買い足し続けてこれたのは、それらがないと苦痛でしかない現実から逃げる術を失ってしまうからだったのだろう。


「ふざけやがって」


 男性は酒を水のように飲む。体に悪いという感覚はなかった。


 男性は酒を無しでは生きていけなかった。


 仕事中にもこっそりと酒を飲む。仕事に行く前も、終わってからも酒を飲み続けた。飲酒運転はしてはいけないという常識は男性の中から消え失せ、それを指摘されるたびに罵詈雑言を大声で喚き散らした。


「くそ野郎どもが」


 男性は悪態を吐く。


 男性は常に怯えていた。


 だからこそ、自分自身を守る為には常に周囲を敵と見なして攻撃をしなければいけなかった。泣き叫びたくなるほどに男性の周りは敵ばかりだった。


 誰も男性に同情をしない。


 誰も男性の心の悲鳴に気づこうともしない。


 男性は生きていた。しかし、生きながら地獄の業火で焼かれているような日々を過ごし、生きる為に酒に逃げた。酒に溺れている時だけは男性を責める声にも、罵詈雑言にも立ち向かえるような気になれた。


 頭の中で響く声が男がするべき行動を示してくれる。


 その声は、酒に溺れ、心を壊し、生きる意味がわからなくなった男の唯一の味方であり、絶対的な存在だった。


「俺に死ねと……」


 男性は自身の死を急かす声を追い払うように、なにもないところに向かって大きく腕を振った。虫を追い払うような仕草ではあるが、虫はいない。しかし、男性の憎悪の籠った視線はなにもない壁に向けられた。


「バカにしやがって!!」


 夜間だということを忘れているのだろうか。


 男性は大声を上げる。


 しかし、隣の部屋からは苦情を訴える音はない。


 隣の部屋に住んでいるのは男性の同僚だが、彼の酒癖の悪さと聞くに耐えられない罵詈雑言を知っている為、見て見ぬふり、聞こえないふりをしているのだ。誰もが自分自身を守ることで精一杯であり、誰も男性に救いの手を差し出せる者はいなかった。


 男性の心は荒んでいく。


 誰にも助けを求めることもできず、地獄から逃げだす術も知らなかった。


「どいつも、こいつも……」


 男性の声は震える。


 未開封だった缶ビールに手を伸ばし、中身が飛び散ることを気にもせずに豪快に開ける。それを沸々と湧き出てくる怒りとどうしようもない不安感を飲み込むように、ビールを一気に飲み干していく。


「俺を、ばかにしやがって!」


 男性は空になった缶を壁に投げつける。


 その音は隣人の妨げになっているだろう。それすらも男性にはどうでもいいことだった。


「うるせぇ。うるせぇんだよ!」


 男性は悲痛の声を上げた。


 どうしようもない罵詈雑言に耐えられるほどに男性の心は強くない。それなのに、男性を追い詰めるような罵詈雑言が男性の頭の中では鳴りやまない。


「うるせえって言ってんだろうが!」


 男性には彼のすべてを否定する声が聞こえている。


 それは鳴り止まない。嘲笑う声が男性をバカにしている。非難する声や存在を否定する声が男性の頭から離れない。


 誰かが男性を嘲笑っている。


 誰かが男性を殺そうとしている。


 誰かが男性をバカにしている。


 根拠のない声を否定することができなかった。


 男性はその声が自分だけに聞こえているものだと知ることができないまま、感情のままに暴れる。暴れている間は声に抗える気がした。


「うるせぇ!」


 男性は鳴り止まない非難の声を否定する術を持たない。


「うるせぇ! 俺がなにをしたっていうんだ!」


 それらの声は男性にしか聞こえない。


 この部屋には男性しかいない。彼を笑う者はいない。


 それなのに男性は鳴り止まない声に心を蝕まれていた。


 傷だらけになり、出血の止まらない心は粉々になる寸前だった。心の悲鳴は男性には彼のすべてを否定する悪魔の声にしか聞こえない。


「あああああっ!!」


 言葉にもならない大声を上げる。


 男性は初めから職場で嫌われていたわけではない。


 日に日に、酒に溺れ、罵詈雑言を口にするようになり、情緒不安定な彼に巻き込まれることも、いらだちをぶつける標的になることも、誰もが嫌がり、避けるようになった。


 それは男性の言動が原因だった。


 しかし、男性には理解ができなかった。


 職場にいるすべての人間が彼を見下し、彼を指差して嘲笑っているようにしか思えず、それが真実であると思い込んでいた。


「……死ねばいい」


 男性は静かに呟いた。


 少し前まで奇声をあげていたとは思えない変わり方だ。


「死んでしまえ」


 男性は机の上に投げ出されていた紙を掴み、置いたままになっていたボールペンを掴み、恨みの籠った罵詈雑言を殴り書いていく。


「不幸になれ。俺よりも。苦しめ。苦しんで、苦しんで、苦しんで、死んでくれ」


 男性の目には正気はなかった。


 涙すらも枯れ果て、男性に希望はなかった。


「死ね、死ね、死んじまえ」


 男性は息を吐くように言葉を口にする。


 感情のままに呪いを口にする。


「あの野郎。死ね。誰よりも苦しめ。死んじまえ」


 男性の心は壊れてしまっていた。


 負の感情だけが男性を突き動かす。壊れてしまった心は隙だらけであり、目に見えない負の感情の塊たちにとって、男性は格好の餌食だった。


「死んでしまえ」


 男性は呪いの言葉を口にした。


 負の感情は言霊となる。


 呪いの籠った言霊は黒い靄へと成長し、男性の部屋の片隅に立っていた。


 黒い靄は男性に視線を送る。寒気のする視線が送られていることにすらも気づかないまま、男性は息を吐くように呪いの言葉を口にした。


 男性はボールペンを投げ捨てた。


「……は、は、は」


 男性は乾いた笑い声を上げる。


 なにも面白いことはない。なにも楽しいことはない。なにが楽しかったのかさえも、男性は思い出せなかった。


 楽しかった日々も美しかった思い出も、愛おしいはずの家族さえも、なにもかも色褪せた遠い過去のものだった。


 その頃に戻りたいと思う感情さえも捨ててしまった。


 生き地獄は男性には耐えられなかった。


「そうだ。こうすれば、良かったんだ」


 男性は鳴り止まない声を振り切るのをやめた。抵抗をするのを諦める。すると、不思議なことに体が軽くなる気がした。


「死んでしまえば、いいんだ」


 男性には、なにも残っていなかった。


 男性は恨みの炎に炙られ、憎しみに溺れる。


 その狂気を表に出させないように、必死に、必死に耐えてきた。耐えなければならないと思い込み、男性の心は狂気で溢れ、もう元には戻れないところまで来てしまった。


 男性が生み出してしまった言霊は黒く染まる。


 黒い靄となった呪いの塊は男性の行動を見守っていた。


「ばかだなぁ、最初から、こうすればよかったんだ……」


 力のない足取りでクローゼットを開く。


 中には着る機会がなく、カビが生えてしまっているスーツがあった。入社をした日や研修を受けた日に腕を通したはずのスーツには目も向けず、近くに置いてあった黒いベルトを手に取った。


 それは数年前に母と選んだものだった。


 年金をもらう年齢に近づきながらも、雇用してくれる会社は珍しいのだから、気合を入れ直す為にも新しいのを買うべきだと母の熱意に感化され、購入したものだ。


 その日のことを思い返す。


 男性の目から枯れたと思っていた涙が流れた。


 

 ――その日、男性は自らの意思で命を捨てた。



 自ら命を捨てるほどに追い詰めた全てに対して憎しみ、恨みながら、彼は自室で発見された。発見までに数日かかったのにもかかわらず、彼は綺麗な状態で見つかった。まるで眠っているかのようであった。


 その部屋にいたはずの黒い靄はどこにもいなかった。

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