01-1. ある旅館の現実と社長の言い分

* * *



『ミーティングは全員参加するという当たり前のこともできていないのですか?』


 旅館で働いている従業員たちが身につけているインカムを通じて、淡々とした声が聞こえた。


 それはインカムを付けている者は全員が耳にしてしまうものであり、昼食を提供している時間帯にお客様を残したまま、事務室で行われるミーティングに全従業員が参加するのは不可能であるという現場の現状を知らない人の言葉だ。


『ミーティング開始時間は十三時と決められていますが、それを知らないような人はいませんよね? まさか、そこまで教育が行き届いていないとはおもいたくはないのですが』


 追い打ちをかけるような声が聞こえる。


 インカムを投げ捨ててしまいたくなる衝動を押し殺しながら、返事をする勇気がなかった。


 ……当たり前ね。


 インカムの言葉は女性、鈴木リカの心の傷をえぐる。


 傷に塩を塗り込まれ、傷口に指を突っ込まれ、強引に心の傷を破壊しようとしているような不快感だった。


 ……それができるような状況じゃないのに。


 現場を知る従業員たちの中で、それなりにうまく回してはいた。


 どうしても、参加できない従業員たちに対し、参加をした人が代わりに内容を伝えるという形で補う努力はしていた。


 それでも、情報供給の失敗は起きる。


 大半は悪質な伝達不足だ。


 それに対し、情報を補いながら対応を強いられ、四苦八苦しながら確実に追い詰められた経験はリカだけがしてきたものではない。


 ……人材不足は経営者が解決するべきことでしょ。


 旅館は常に人材不足だ。毎年、三十人以上の新入社員が入社をするのだが、それでも人材不足は補えない。


 入社をする数よりも退社をする数が多すぎた。


 旅館によっては入社五年目が主任の役目を背負わされ、それ以外の正社員は五年未満の者たちばかりだ。


 それでも、退職する為に腹をくくれる人は一握りだ。退職届を出してからの一か月間の地獄のような日々を考えれば、退職届を出そうとする手が震えてしまうのは、この旅館の環境が生み出した地獄のような雰囲気がいけない。


 ……誰も社長に言えないけど。


 社長は旅館に常駐しない。


 グループ傘下の旅館を転々としており、それぞれの場所で喝を入れると名目の罵詈雑言を吐き散らし、経営が改善されるまでは一か所に居続ける人だった。


 今回はリカの所属している十二単の館がその対象になったのだろう。


 ……最悪。


 応酬は繰り返される。


 負の連鎖は止まらない。


 互いに悪意の牙を向き、互いの足を引っ張り合い、表面上は取り作っていたはずの仲良し正社員の関係は歪なものに変わっていた。


 既に手の施しようがないところまで来ている。


 誰も互いのことを信じていない。誰もが敵だった。


 それに気づいたリカは、一ヶ月前に自分の命を優先し、逃げるように退職届を提出していた。


 リカは死にたくなかった。


 死ねば楽になるという根拠のない誘惑に抗い、退職届を出した。散々、怒鳴られ、責められたが、リカは屈するわけにはいかなった。


 もし、屈してしまい、退職届を取り下げれば、リカは生き地獄の中で命を燃やし続けなければいけなかっただろう。心身ともに手遅れとなり、壊れ、息をすることさえも諦めていてしまっただろう。


「はい、田村です。ミーティングの時間を過ぎてしまい、申し訳ありません」


 現場が唖然としている中、インカムを通じて真っ先に返事をした女性、田村友香の目は死んでいた。


 無理なことだというのは友香も理解をしていた。


 しかし、事務室で仁王立ちで苛立ちを隠すこともなく、全員が集まるのを待っているだろう社長の機嫌を損ねるわけにはいかず、真っ先に返事をしたのだ。


 それが主任に上がることもできず、役職手当も発生しないリーダーという中途半端な権力だけが与えられた役目を背負わされた友香の役目だった。


「ごめん。これ、出してきてもらえる?」


 友香は準備をしていたデザートの配膳を諦めた。


 他の席を担当しているリカがパントリーに戻ってきた途端、表情一つ変えずに配膳をリカに渡す。それは有無を言わさせずに押し付ける為だった。


 変わってもらえることが当然だと思っている。


 リカに対して散々な対応を取り、リカの心を壊すような言動をしてきたことを忘れてしまったかのように人のよさそうな顔をしていたのが、リカの心を真っ黒に染め上げていく。


 去年まで友香は良き先輩だった。リカの大好きな先輩だった。


 その感情を捨てることができれば、リカはもう少しだけでも旅館に留まろうとしていただろう。


「わかりました。七番席に出してきます」


 リカは配膳を受け取った。


 自身が担当している席の食事の進み具合を気にかけつつ、押し付けられたと文句を言わない。


 忙しいのは全員だ。


 その中でも社長の相手をすることを選んだ友香は、勇者のようだった。魔王に立ち向かおうとする勇者のように、友香の手が震えている。


 職場の雰囲気を支配する魔王である社長は、勇者の心を理解せず、勇者が庇おうとしている部下たちの立場を考えようともしない。


 絶対的な存在は他人がなにを言おうとも気にしない。


 逆らうようならば、踏みつぶしてしまえばいい。


 それが許される立場にいる社長は人の心を持ち合わせていないのだろう。


 社長の心のない言葉と正論のように聞こえる綺麗事交じりの罵詈雑言は、従業員の心と精神を縛り上げ、社長にとって都合のいい駒でいることが最善だと思わせてしまう。


 ……田村さんは泣き落とつもりなのかな。


 友香の得意技が通じる相手ではない。


 それでも、そこまでしなければいけない相手だった。


 ……なにもできなかった私には、なにも言えないけど。


 しかし、友香以外は誰も名乗りあげなかった。


 まだ食事を続けているお客様がいる。


 昼食を楽しみにきたお客様を理不尽な目に遭わせられない。


 リカたちは、旅館の従業員としての誇りがあった。


 最大限の過剰なおもてなしは、彼女たちの誇りだ。


 彼女たちはお客様が満足して、笑顔で帰られる為ならば自分たちの命さえも削っている。やりがい搾取だ。それでも、リカたちは感覚が麻痺してしまっていた。


 お客様が喜んでくれるのならば生きていた価値を認められているかのような高揚感に溺れ、駒のように動かされているだけの自分自身が輝いているように感じてしまう。


 それが異常だと誰も気づけない。


 十二単の館はおもてなしの旅館だ。お客様の望みであれば、どのような罵詈雑言も真摯に受け入れ、土下座を要求された時には願いを叶える。

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