01-2.
それが当然な場所だった。
過酷な現場だ。
旅館の正社員はなんでもしなければならない。
フロントの事務業務、客室案内を含めたチェックイン業務、お客様の荷物の運搬は客室案内の前に行うのが常識であり、エスカレーターは従業員たちは使用禁止の為、階段を荷物を傷つけないように気をつけながら駆け上がらなければない。
それらが終われば、食事の配膳と片付けがある。その合間に次の食事の準備を行い、宴会があれば宴会場の設置もしなければいけない。
客室の清掃が間に合わなければ、正社員は駆け付けなければいけない。
大浴場の清掃が間に合わなければ、正社員は駆け付けなければいけない。
すべての作業は人材不足を補うように、一人一人の背中に期待という名の圧力を乗せ、円滑に進められるように成長を促される。
円滑に進められるように成長した先に待っているのは、生き地獄だ。
誰も助けを求められない場所に突き落とされ、一人で食事処を何席も対応させれるのは当然のことであり、宴会場に回されてもすべてを一人で行うように言われることも増えてくる。
先輩たちもそれをしてきたという悪魔の言葉は、絶対だった。
誰もが自分の命を削って汗だくになって働いている。
やりがい搾取される現場でも、笑顔を貼り付けて立ち続けられるのはお客様の喜んだ顔が見たいからだ。
たとえ、その顔に隠しきれない隈があり、死んだ魚のように光のない目をしていても、能面のような笑顔を身につけて仕事をこなす。
それは使い勝手の良い駒だ。
自尊心を折り曲げ、仕事の不満を自分自身の弱さのせいだと言い聞かせて洗脳をする。
そこまでして立ち続けなければ、仕事を円滑に回すことは不可能だった。
『リーダーである田村さんが食事処にいながらも、まだ、ミーティングに行けないと判断したと言うことでいいですか?』
社長は嫌味ったらしく、発言する。
それはミーティングの時間に間に合うように配膳をすることができなかった従業員のせいで、リーダーという主任に満たないものの他の従業員の指示を出す立場にある田村が怒られているのだと遠回しに言っているのだろう。
……糞野郎。
そのやり取りをインカムで聞きつつ、顔には笑顔を貼り付けてお客様対応をしていたリカは心の中で悪態を吐く。
……現場を見てから言いやがれ。
リカは一週間後に退職をする。
過酷な勤務で体を壊したのが原因だった。心が再起不能になる前に逃げることをリカは選択した。その選択が正しかったのか、リカはわからない。
それでも、死にたくないという本能のままに退職届を出していた。
……この状況で誰がいけるって言うんだよ。
早番の日は六時半に出勤し、十七時の定時を過ぎても帰れず、チェックインの業務が落ち着いた十八時半以降に帰宅する。
当然、休憩時間は取れない日がほとんどであり、とれたとしても一時間に満たない休憩で、休憩時間を与えられなかった従業員からの罵声浴びてから仕事を再開することになる。
……頭が痛い。
リカにとって、休憩がとれないよりも、休憩をした後に浴びせられる心のない言葉を聞く方が苦痛だった。
中番、遅番、早遅等、様々な形態はあるものの、基本となる出勤時間が異なるだけで後は全員同じ条件の下、奴隷のように働いている。
その中でリカは友香から嫌がらせを受けていた。
深夜の二時が回った頃、毎日のように連絡が来る。スマートフォンの通知恩に叩き起こされ、内容を確認すればシフトの変更を告げる内容だ。
それが三か月間、毎日のように続いた。
休日も欠かさずに連絡が来る。休日出勤もすることができないのかという悪意の籠った内容は嫌味だ。
誰もそんなことをしていないとリカは知っている。
本当に休日出勤をしたところで休みの日を間違えたのかと、中傷を受ける。
わざわざ、朝早くに叩き起こし、休日だから帰れと言われるだけの時間は苦痛だ。
しかし、たまにリカの意思とは関係なく、勝手に休日の日にちを変えられてしまっていることがある為、リカは友香の連絡を無視することが許されなかった。
……バカバカしい。
その嫌がらせを受けているのはリカだけだった。
心身に不調が出るのは当たり前だった。
それでも、リカは良い方だ。
心が壊れて治らなくなる前に退職をすると決断することができた。心の自己防衛かもしれない。リカは過酷な現実に別れを告げ、逃げる道を選択した。
それは誰にでもできることではない。
「申し訳ありません。すべて、田村の采配ミスです」
友香は思ってもいない言葉を口にしていた。
デザートの配膳を終わらせ、食後の過ごし方の案内を済ませたリカがパントリーに戻ると、友香と目があってしまった。
……田村さん。
リカは心が傷まない。
同情心はある。しかし、怒られている友香を見ても申し訳ないとは思えなかった。
過酷な勤務に耐えられなかったリカを追い詰めたのは、友香の滅茶苦茶なシフト調整のせいでもあった。
夜中に鳴るシフト変更を告げる音がなによりも恐ろしかった。
電話の音が鳴るたびに動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなる。それは一時的な苦しみではなく、退職後もリカを苦しめ続けていくだろう。
それらは、すべて友香によって行われた。
だからこそ、リカは理不尽だとわかっていながらも、友香のことを恨めしく思ってしまっていた。
『それで? どうしますか? このまま、ミーティングをせずに待っていろとでも言うつもりですか?』
「いいえ。すぐに行きます」
『全員参加できますということですね? それなら、どうして13時までに降りてこなかったんですか? ミーティングに参加する意味はないと判断でもしましたか?』
社長の言葉は止まらない。
現場を確認しようとしないのは、ミーティングに参加する為に事務室で待機している従業員たちが社長を宥めようとしているからだろう。
悪いのは食事処にいるミーティングに参加できない従業員たちであり、社長自ら顔を見せる必要はないと必死に社長に媚を売る主任の姿が簡単に想像できてしまう。
……できるわけがない。
リカは次に出す準備をしつつ、周囲の様子を見る。
忙しなく、パントリーと食事処を行き来する後輩、山田夏鈴には余裕がない。
夏鈴を残していくのは危険だ。
そうなれば、二年目のリカが残るしかない。
……無理でしょ。
食事処の席はすべて埋まっている。
食事の提供が終わっているのは半分だ。
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