第3話








「これが検査結果だ。肺や気管支に目立つような異常は見られないが、気管に炎症が出ているから、吸入薬を処方しよう」

「はぁ……」

「あれだけ咳き込んでいたから肋骨が折れていないか懸念したが、骨も無事だ。……まぁ、身体はかなり弱っているから、このまましばらく入院したほうがいいな。あまり眠れていないだろう?」

「はい。横になると毎晩咳が止まらなくなってしまって」

「寝る前と起床時が咳の発作が起きやすい。せめて発作の頻度が下がるまではここにいろ」

「あの、お金……」

「金はいらないと言ったよな?」


 白衣の男は女に有無を言わさず入院手続きを行い、保証人の欄にも自分の名前を記した。


「何か必要なものがあればこの端末タブレットから注文しろ。代金は気にするな。保証人は俺だから経費で落ちる」

「は、はい……あの……」

「なんだ?」

「何故、私によくして下さるのですか?」


 尋ねる前からおおよそ、返答の予想はついていた。

 それでも、女は聞かずにはいられなかった。

 男は淡々と彼女の疑問に答える。


「君になにかあれば息子が悲しむ」

「そうですよね……」

「早く元気になるように。息子がずっと君の心配をしていた。悲しそうな顔をする息子を見て、忍びなかった。だから君を助けた」

「あ、ありがとうございます……」


 女は膝の前で手を重ねるとぺこりと頭を下げた。

 悲しそうな息子を見て自分に手を差し伸べてくれたのか。薄々分かってはいたが、やはりこの人は優しい父親だと彼女は思う。

 いくら子の母親とはいえ、なかなか出来ることではない。この国では医療費は全額個人負担で高額だ。庶民はそう簡単には医者にかかれない。彼女も日々食べていくのがやっとで、どれだけ体調が悪くとも病院には行けなかったのだ。


 男はまた女に端末タブレットを差し出した。


「少しでも何か食べたほうがいいだろう。ここでは毎日五種類の中から食事が選べる。君は気管に炎症があるから、スープ類にはトロミをつけることをおすすめする。食材や日用品もここから買える」

「は、はい。ありがとうございます。どれも美味しそうですね」

「たまごスープとトマトスープが美味い」

「じゃあ、トマトスープで……」


 ここ一ヶ月、女は日に日に酷くなる咳の発作に一人、怯えていた。

 結婚制度など、家族を形成するシステムがなくなって約二百年。彼女も培養液ベビーとして生まれ、両親の顔を知らない。天涯孤独で生きてきた彼女には頼れる人間がいなかった。

 息子を通して手を差し伸べてくれる男の存在に、彼女の胸には言いようのない安心感が広がった。



 ◆



「おかあさん!」


 次の日、病室に女の息子がやってきた。息子の後方には白衣の男もいる。

 息子は彼女のベッドへ駆け寄った。 


「だいじょうぶ? またお咳が出たの?」

「大丈夫よ、その……あなたのお父さんが助けてくれたから」

「おとうさんが?」


 彼女は遠慮がちに白衣の男を見上げる。彼らの間には子がいるが、二人は昨日はじめて顔を合わせた。まだ距離感が掴めないのだ。

 白衣の男はじっとこちらを見下ろしている。


「そう、あなたのお父さんが私をここまで連れてきてくれて、治療してくれたのよ」

「そうなんだ! ……へへっ、おとうさん、おかあさんを助けてくれてありがとう!」


 息子はくるりと白衣の男の方へ振り向くと、彼の腰に抱きついた。白衣の男は、人形のような顔をほんの少しだけ緩めると、息子の癖っ毛を大きな手で撫で回す。


「ねえ、おとうさん、おかあさんのお咳は治る?」

「完全に治すのは難しいが、元気にはなるよ」

「そっか! おかあさんが元気になったら、皆で水族館いきたい!」

「うん、そうだな」


 父子のやりとりに、女の表情がやわらぐ。

 息子の話からも白衣の男の子煩悩ぶりが伺い知れたが、実際に目にすると、つい笑顔が溢れそうになる。男は自分にはつっけんどんな言い方をするが、息子相手だと口調が柔らかくなった。

 二人の様子を見ていると、白衣の男と目が合った。睨まれたような気がしたが、おそらく気のせいだろう。それか、クールな彼は息子と戯れる姿を見られて照れているのかもしれないと、彼女は都合良く解釈する。


「二人とも、とても仲がいいのね」

「うん! おかあさんも、おとうさんと仲良くなってもいいよ!」


 息子は両親の仲が良くなることを願っているようだ。彼女も息子の父親と仲良くなれたら、と思った。まだ出逢ったばかりだが、彼はとても良い人だと思う。昨夜から何かとこの部屋を尋ねてきて、不便はないか、具合は悪くないかと聞いてくれた。表情は乏しいが、面倒見の良い人なのだろう。

 息子の父親に負担をかけている事は心苦しいが、元気になれたら何かお返しができないか考えよう。


「ふふっ、そうね」


 先ほど白衣の男が撫でていた、息子の小さな頭を撫でる。ふわふわとした手触りが心地よかった。

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