My Family

野地マルテ

第1話

 女は今日も、白く四角い大きな建物へ向かって歩いている。

 時折、こん、こん、と小さく咳をもらしながら。

 元々色白だと言うことを差し引いても、彼女の顔色はあまり良くない。

 しかし、彼女の口端は上がっていた。


 女は毛玉の浮いたストールを引き寄せると、歩を進める足を早めた。



「……おかあさん!」


 建物の玄関付近には癖っ毛の男の子がいた。歳の頃は、四つか五つぐらいか。男の子は待ちきれないと言わんばかりに、彼女へ向かってタッと駆け出す。


「いきなり走っては危ないわよ」

「えへへ、ごめんなさい!」


 彼女は自分の腰に抱きつく男の子に優しく注意しながらも、彼のふわふわとした栗毛色の頭を撫でる。


 この白く四角い建物は保育施設。

 主に初等学校へあがる前の子どもたちが暮らしていた。


「ぼく、昨日もおとうさんと遊んだんだよ」


 男の子は彼女を見上げながら嬉しそうに報告する。

 彼の父親は軍施設で働く医師。忙しい時間を縫い、毎日のように男の子に会いに来るらしい。大層な子煩悩らしく、男の子は父親の事が大好きだ。


「そう、良かったわね」


 彼女は幼い息子の瞳を見つめながら思う。彼の父親はどのような男なのだろうか、と。

 男の子の瞳の色は深い緑色をしている。彼女の瞳の色は青空を思わせるような水色。この母子は癖っ毛な髪質と顔立ちはよく似ていたが、瞳の色だけは似ていなかった。


 男の子の父親は、彼曰く『背が高くてかっこよくて、お休みの日は公園へ遊びに連れてってくれる優しいお父さん』らしい。


 彼女は、男の子の父親に一度も逢ったことがない。

 本音を言えば、深緑色の目をした父親に逢ってみたいとずっと思っているが、軍施設に面会をお願いする勇気がなかなか出ない。

 男の子の父親はまちがいなく軍のエリートだ。

 それに比べて彼女は、その日暮らしがやっとの民間人だった。


 研究施設へ卵子を有償提供するぐらい、彼女は貧しかった。


 男の子は彼女の血を引いているが、彼女がお腹を痛めて産んだ子ではない。特殊な培養液で彼女の卵子と軍籍者の精子を受精させて生み出された、培養液ベビーである。


 この国は約二百年前に結婚制度が廃止された。

 あらゆるものの技術進歩が目まぐるしいこの国には娯楽が溢れかえっていて、わざわざ結婚・出産などという面倒で煩わしいことをする人間がほとんどいなくなったのだ。

 坂道を転げ落ちるように人口が減り、危機を感じた国は、研究機関で人間を作り出して育て、世に送り出すことにした。

 男の子もそうして、この世に生を受けた一人だ。


「お父さんとどんなお話をしたの?」

「うん! あのね!」


 彼女は男の子から父親の話を聞くことが好きだった。

 父親の年齢はおそらく二十代後半。闇色をした癖のない髪質をしているらしい。

 彼女は男の子の話から、父親像を妄想していた。

 タイトな軍服を着こなす美男子で、一見冷たそうな印象を受けるも、息子を心から愛する優しい男性という、いかにも女性の夢がつまったような姿を頭に思い浮かべていたのだ。

 息子の父親はもしかしたら、息子の母親ということで自分にも優しくしてくれるかもしれない。そんな都合の良いことを考えながら、彼女は己の心をこっそり温めていた。


 彼女はまだ、理想の男性を夢見るお年頃だった。



 ◆



 カツ、カツ

 小さな細い棒で机を打ち叩きながら、モニターを見上げる男がいた。

 モニターに映し出されているのは、先ほどの母子。

 スピーカーからは、母子の楽しげな会話が聴こえてくる。


『おとうさんにね、「将来何になりたい?」って聞かれて、ぼく、お医者さんになりたい!って言ったの』

『どうして、お医者さんになりたいの?』

『おかあさんの病気を治したいの!』


 女は病に冒されていたらしい。

 けなげな男の子の言葉に、女は大きな目を潤ませている。

 その微笑ましい母子の様子に、モニターを見ていた男は「チッ」と小さく舌打ちする。

 形の良い片眉をきりりと吊り上げ、眉間に皺を寄せ、モニターを鋭く睨むその男の瞳の色は深緑色で、癖のない真っ直ぐな髪は闇色をしていた。


 彼は男の子の父親だった。

 一応軍医で、位は大佐。

 一応と付けたのは彼は軍医と言っても研究者寄りで、軍人の診療を主にしているわけではないからだ。


 彼の背後にある扉がウィィーンと機械音を立てて開き、一人の男が入ってきた。彼の同僚である。

 同僚の男は彼の後ろへ立つと、モニターを興味深そうに覗き込む。


「おや、大佐。まーたモニターで坊やの母親を観察してるんですかァ? 可愛い方ですもんねェ」

「性的な対象として観ているわけじゃないぞ。大事な息子に危害を加えやしないか、見張っているんだ」

「いやいや……。この優しそうなお母さんが何かするわけないでしょう?」

「わからんぞ」


 彼の手元には四角い端末がある。ディスプレイには『幼児虐待についての調査結果』との文字が浮かび上がっていた。

 その調査結果では、実母による虐待件数の棒グラフが抜きん出ていた。

 それを見た同僚の男は呆れたようにつぶやく。


「また古代文書を漁っていたのですか……。結婚制度があった時代は、実母が一人で育児をしていたらしいですからねェ。そりゃ虐待件数も増えるってもんです」

「母親とは恐ろしい生き物だ」

「ハイハイ」


 同僚の男は付き合いきれないと言わんばかりに背を向けると、棚にあった端末タブレットを一つ取り、そのまま出ていった。


 部屋に一人になった彼は、また母子の監視に戻った。

 モニターには、楽しげな息子の顔が映し出される。

 息子の笑顔は可愛い。世界一だと彼は整った口許を緩める。

 しかし息子にこんな顔をさせているのが自分ではなく、母親だと思うと落ち込んだ。

 彼はけして認めないが、彼は心の奥底で、息子の母親のことをライバルだと認識している。母親が息子に危害を加えるかもしれない、と同僚に言ったのはただの言いがかりにすぎない。彼は息子に愛されている、息子の母親に嫉妬しているだけなのだ。


 この国から結婚制度が失われてから約二百年。

 彼も彼の息子と同じように培養液で生み出された存在だった。彼は自分に遺伝子情報を与えてくれた両親には一度も会ったことがない。当然、彼は家庭というものを知らない。


 彼の家族は、培養液ベビーの息子だけだ。

 その最愛の息子が、自分以外の誰かを親と認識し、懐いている。

 到底許し難い光景だった。

 何回、息子と母親との面会を禁止させようと思ったか。

 しかし母親と会えなくさせれば、まだ四歳の息子が寂しがるのは目に見えている。息子が悲しむ事態は避けたい。


 彼は唸る。息子の母親を排除したい。だが、息子の笑顔が失われるのは困る。軍医として、研究者として、それなりに有能なはずの彼は、ただ一人の小さな家族に振り回されていた。

 並大抵のことでは動じない彼が、息子のことになると簡単に冷静さを失った。


 モニターの前で唸っていても答えは出ない。

 今日こそはあの母親に一言言ってやろう。そう思い、彼は椅子から腰をあげ、白衣の襟を正した。

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