第2話
灰色の軍服の上に白衣を纏った男は、ずんずん歩を進める。息子の母親に言う
男がいた軍の研究施設と、息子が預けられている保育施設は目と鼻の先にあった。
男は息子の母親が帰るタイミングを身測って施設の外へ出た。
しばらく歩くと、息子の母親らしき女の姿が見えた。
だが、様子がおかしい。
コホ、コホと苦しげに咳き込む音が耳につく。
前方には埃っぽい地面にしゃがみ込み、口許をおさえる女の姿があった。
咳喘息の類か、と医師である男は推測する。
息子の母親は呼吸器官に不調があるらしく、たまに咳き込んでいた。息子は咳に苦しむ母親のことを心配していて、医者になりたいとまで言っていた。
男はまた、心の中で舌打ちする。
本音を言えば、息子の母親を助けたくはない。
しかし、このまま咳き込む女を放っておいたら、下手すると死ぬかもしれない。
先ほどまで女への嫉妬心で、彼女を処分する算段までつけていた男は狼狽える。女が死ねば、幼い息子が悲しむという事を思い出したのだ。
それに病気で苦しむ人間が目の前にいるのに無視をするのは、彼の医師としての矜持が許さなかった。
男は複雑な思いが胸に渦巻きながらも、意を決して女に近づいた。
「大丈夫か?」
大丈夫ではないのは分かっている。しかし、そう尋ねずにはいられない。女は咳き込みながらも、懸命に返事をしようと顔を上げた。目頭からはぽろぽろと涙が溢れ落ちている。
「いい、喋らなくていい。これで口許を押さえていろ」
男は白衣から真っ白なハンカチーフを取り出すと、女に手渡した。女は小さく頷くと、言われたとおりハンカチーフで口を押さえた。
「施設まで運ぶ。じっとしていろ」
男は女の背へ腕を回そうとしたが、彼女は涙目で首を横へ振る。白衣を着ているとは言え、知らない男に運ばれようとしているのだ。抵抗するのは当然である。
仕方なく男は胸ポケットから身分証を取り出すと、自分が何者であるのかを簡潔に説明した。
あの、癖っ毛で深緑色の目をした男の子の父親であると。
女の抵抗が止んだ。
男が女の膝裏に腕を回し、抱き上げると、彼女はぎゅっと瞼を閉じた。
◆
真っ白なベッドの上。腕に点滴を刺した女は、白衣の男を戸惑った目で見上げていた。
「落ち着いたか?」
「は、はい、お陰様で……。助けて頂いてありがとうございます」
酷薄そうな深緑の瞳が、女を見下ろしている。
こんな形であの子の父親と会うだなんて。息子が話していた通り、父親は医者だった。彼は自分を横抱きにして近隣の施設まで運び、咳止めだという点滴を処置してくれたのだ。
「点滴が終わったら検査しよう。ちょうど検査の予約が空いていて良かったな」
「そんな、検査だなんて……。私、お金を払えません」
「金は不要だ。君は医者の判断で検査を受けるのだからな」
おそらくは高額であろう検査費。女が支払いが出来ないと言うと、男は金は不要だとぴしゃりと言い退けた。
「君の症状は薬で対処できるようなものだろうが、念のためだ」
「は、はい」
「いつから咳が出始めた?」
「そうですね……。子どもの頃から、乾燥している時期はよく咳が出たのですけど、ここ一、二ヶ月ぐらいは特にひどくて。毎朝自分の咳で起床するぐらいで」
「そうか、典型的な咳喘息の症状だな。咳がひどくなった時期に何か変わったことはあったか?」
「どうでしょうか……。自分では思い当たることはないですけど」
「身体を大きくぶつけただとか」
「いいえ……そのような事は。私は在宅勤務ですので、ほとんど外を出歩きませんし。たまに外に出る時は買い物か、あの子に逢いに行く時ぐらいですね」
息子の話題を口にした女は、まじまじと白衣の男の顔を見つめる。
息子とは瞳の色は同じだが、顔立ちはまったく似ていない。その事に彼女は少しだけがっかりする。自分に似ている息子のことは愛しく思うが、父親に似れば美形に生まれたのにと息子に申し訳なく思った。
息子の父親はかなりの美形だった。背はすらりと高く、顔が小さくて手足が長い。切れ長の涼やかな目元に、スッと通った鼻梁、口許は整っていて歯並びも良い。知性が感じられる顔だ。息子から父親のことを何も聞いていなければ、『綺麗すぎて怖い』と思ったかもしれない。
一見怖そうに見えるけど、彼は子どもを可愛がる優しい人なのだ。
「……どうして笑っている?」
男の眉間に皺が寄せられる。無意識に笑っていたらしい。
「ごめんなさい。瞳の色があの子そっくりだなと思って……」
今までずっと、女は息子の父親の姿をあれやこれや想像していた。息子は『お父さんはかっこいい』と言っていたので、かっこいい人なのだろうなと漠然と思っていたが、本当に素敵な容姿をした人だったので彼女はドキドキしていた。
しかも咳で苦しむ自分を助けてくれた。まだ若い彼女は、この状況にときめかずにはいられない。
「検査の時間になったら呼びに来る。それまで休んでいろ。何かあったらベッドのブザーを鳴らせ」
「は、はい」
白衣の男は、手元にある
女はその白い背中が見えなくなるまで見つめていた。
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