第8話


 寝てしまった我が子を保育施設まで送り届けた男は、部屋の扉を開けた。

 奥の部屋から、こん、こん、と咳き込む音が聞こえる。


 扉を軽くノックして中に入ると、入院着にきがえた女がベッドの上で背を丸めて苦しげに咳こんでいた。


「ごめ、ごめんなさい……ごほっ、こほ」

「謝るな」


 白衣の男は女を責めなかった。こうなることは予想がついていたからだ。

 数日ぶりに腕に頓服薬を打ち、女の咳発作がおさまるまで背中をさすり続けた。

 クリーンルームでの出来事を思い出したが、さすがに病人相手に情欲は湧かない。


 数十分、背中をさすっていただろうか。寝息のようなものが聞こえてきたところで、男は女の背から手を離した。

 布団をかけ直してやってから、女の顔をまじまじと見る。やはり、息子ととても良く似ている。


 女の寝顔を見ていると、胸に湧くのは罪悪感。

 昼も夜も、美味しい食事を用意して貰ったのに、ひとつも褒めなかった。褒めてしまうと、また彼女が食事を作ろうとしてしまうのではないか、もっと無理をしてしまうのではないかと思い、怖かったのだ。


 涙を浮かべ、咳をしながら女は謝っていた。女は余計なことをしたと自己嫌悪に陥ってしまったのではないか。自分が誉めなかったから。ろくに感謝をしなかったから。


「今日は食事を作ってくれてありがとう。あの子もとても喜んでいた。……また、元気になったらあの子に何か振舞ってやって欲しい」


 男は、女の寝顔にそう言うのが精一杯だった。




 ◆



 この日、かねてより受けていた資格試験の結果が返ってきた。

 白衣の男は、端末タブレットに浮かび上がる文字を見て呆然としていた。

 結果は不合格。

 百点満点中六十点を取れば合格なのだが、男は二十点しか取れていない。


 軍医として飛び抜けてはいないが、そこそこの知性を持ち合わせた男は、この資格試験に四年連続落ち続けている。

 この資格試験の名は、『結婚適正試験』。


 国の結婚制度そのものは二百年程前に無くなったが、軍の中ではかつてあった結婚制度と似た制度が残っていた。

 しかし、誰もが利用できるわけではない。

 厳選なる審査と資格試験に合格しなければ、家庭を持つことは出来なかった。


 白衣の男は、培養液ベビーの息子と一緒に暮らすため、四年前からこの資格試験に挑戦していたが、まったくもって結果は振るわなかった。この資格試験に合格しなければ、保育施設から息子を引き取ることが出来ない。


 原因は分かっていた。

 端的に言えば、白衣の男は社会病質者だった。他人に対し冷淡で、共感性が薄く、自己中心的。良好な家庭を築くための人格を持ち合わせていなかったのだ。


 男は生まれつき脳の使い方に偏りがあり、思考が一般人のそれとはかなりズレていた。一歳半の頃から社会性を身につけるための矯正プログラムを受け続け、本人の血の滲むような努力もあってなんとか研究者寄りの軍医として働けるようにはなったが、他人と対等な関係を築くことは未だに不得手で、友人と呼べる人間は今まで一人も出来たことがなかった。


 白衣の男が息子に対し、並々ならぬ執着心を見せるのも、長年の孤独が原因だった。男は誰も自分の本当の考えに賛同してくれない世界に生きている。いわゆる変わり者である彼は、常に人から距離を取られていた。

 男の幼い息子だけが、唯一彼の懐まで来てくれる人間だった。



「先生、元気がないですね……。何かありましたか?」


 顔に失意の色が出ていたのだろう。検温の時、息子の母親から心配そうに言われてしまった。

 心が弱っていた男は、自分が落ち込んでいる理由をつい、口にした。


「四年前から挑戦している資格試験に、また落ちてしまったんだ」

「あら、先生すっごく頭がいいのに……。そんなに難しい試験があるんですね」

「別に頭はたいして良くない……。毎日模擬問題を解いていたが、何年経っても受かる気がしない」

「辛いですね……。そういう時は思い切ってリラックスしたほうがいいですよ。ほら! あの子が水族館へ行きたいって言ってたじゃないですか。思いっきり遊んだら、気持ちも切り替わると思いますよ」


 女の、気遣いが見える笑顔が目にまぶしい。

 この女ならば、結婚適正試験にあっさり合格するだろう。

 この女と毎日一緒にいて、言葉を交わしていると思うことがある。息子が彼女に懐くのも当然だと。

 他人である自分でさえ、最近は彼女といるとずっと重かった胸の中が軽く感じられる。

 彼女のコミュニケーション能力の高さが心底恨めしい。


「……水族館、行こうか。君も一緒に」

「えっ、私もですか?」

「電動車椅子を用意しよう。人が少ない時期を狙えば、君も楽しめると思う」


 男の提案に、パッと女の表情が輝く。

 女の笑顔を見た瞬間、何故か男の胸に痛みが走った。


「嬉しいです! 楽しみにしていますね」

「……ああ」


 いつまでもクヨクヨしていてはいけない。女が無理なく水族館を楽しめるよう、考えつく限りの配慮をしなくては。

 男は部屋から出ると、すぐさま端末を手に取った。

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