第9話




 海水で満たされた藍色の天井を、悠々とおよぐキュウジョウノツカイに、思わず大きなため息が漏れる。


「すごぉぉい! おっきい!」

「せびれが長くてきらきらしてますね~~!」


 約束していた水族館に三人で来た。

 男は、女が座っている電動車椅子のハンドルを握っていた。

 珍しい魚たちの姿に、息子も、息子の母親もキャッキャとはしゃいで喜んでいる。


「誰もいないから、ゆっくり見れますね。でも、なんでこんなに空いているんでしょうね?」

「今日は貸し切りにした」

「えっ?」

「他に客がいるとゆっくり見れないだろ? それに人がいると空気が汚れる。君が風邪でも引いたら大変だ」

「おとうさん、すごい!」

「まぁな」


 男は軍でそれなりの地位にあり、趣味らしい趣味もなかったので金が有り余っていた。小さな水族館を貸し切るぐらい、わけなかったのだ。


「先生、あの黄色いお魚はなんですか?」

「イエローハギじゃないかな」

「おとうさん、あっちは何~?」


 端末で魚のことを調べながら、天井が半月型になった道をゆっくり進んでいく。

 非現実的な空間を三人だけで歩いていると、世界に人類が自分達だけ存在しているような気がしてくる。……そんなわけ、ないのだが。

 宇宙を模したような空間にいると、少しの間だけ、結婚適正試験に四回も落ちている事実を忘れられた。


「先生、楽しいですね!」


 電動車椅子に乗る女が振り向く。男は「ああ」と短く返事をする。


 ふと、結婚適正の高い人間はこういう時、どのような振る舞いをするのだろうかと男は考えた。

 ガラスケースに映り込む息子も、女もとても楽しそうな顔をしている。それに対して自分は、感情の神経がすべて死滅したかのように無表情だ。


 自分の存在は、この楽しい雰囲気に水を差しているのではないか。


 ずっと、息子の母親のことが邪魔だと思っていた。自分たち父子の仲に入り込む異質だと。しかし、彼らの表情はいつも一致している。笑う時も、悲しむ時も。彼らに流れている空気は同じものだ。異質であったのは、自分の方だったのだ。



「少し、冷えてきたな。上着を着たほうがいい」

「まぁ、ありがとうございます」


 電動車椅子に下げていた鞄から女の上着を取り出すと、彼女に腕を通させた。

 一見気が利いているような行動も、男が知識として覚えたもので、本心から取った行動ではない。それでも、女はとても喜んでくれる。


 男の心のなかで、とある想いが芽生えはじめていた。

 息子だけではなく女にも幸せになって欲しいと願う、想いが。

 男の中で、女の存在も息子に近しいぐらい大切な存在になりつつあった。

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