第4話







 白衣の男は嫉妬心から来る怒りに燃えていた。

 母子の仲睦まじい様を直に目の当たりにした男は、荒れ狂う感情をなんとか抑えようと机にうつ伏せた。


 あきらかに息子は、自分よりも母親に懐いている。

 培養液内で息子の胚が分裂を始めた時から、自分は息子のことを毎日見守ってきた。あの母親よりも、自分は息子のそばにいたのに。なぜ、なぜ。


「どうして……」


 男の目に涙の膜が張る。悔し涙だ。

 幼児が母親に懐く傾向があることは知っている。だがそれは父親よりも母親のほうが子どもの側にいる時間が長いからだと研究結果には出ていた。自分たちの場合は、自分のほうが母親よりも息子と接している時間が長い。それなのに、息子は母親の方に懐いている。


 形容しがたい感情が腹の奥底から這い上がってくる。

 許せなかった。自分の方が息子を愛しているのに、自分の方が息子の側にいるのに、息子が慕っているのは母親の方だ。


 本音を言えば、あの母親のことはこの世から抹消したい。

 吸入薬に誤った薬品を入れて、周りに分からないように処分したい。

 だが母親が亡くなっても、母親の存在は幼い息子の心に残り続けてしまうかもしれない。


 白衣の男が唸っていると、隣の部屋からけほけほと苦しげな咳の音が聞こえてきた。

 男は息子の母親がいる部屋の隣りで仕事をしていた。


 男はすくっと立ち上がると、隣りの部屋へと続く扉をノックし、開けた。

 ベッドのほうを見ると、息子の母親が苦しげに咳き込んでいる。


「どうした?」


 彼女から事情を聞くと、ウトウトしていたら咳が止まらなくなってしまったらしい。

 入眠時に咳発作が出ることはよくある。

 男は時計を見た。前の頓服薬を打ってから少なくとも七時間以上は経過している。追加で咳止めを打っても問題ないだろう。


 男は注射器を用意すると、彼女の腕を捲って刺した。

 頓服薬の効き目が出るまでには数分かかる。

 男は、横になって丸まる彼女の背をさすった。


 しばらく背を撫でていると、胸元から静かな寝息が聞こえてきた。咳が落ち着いた彼女は眠ってしまったようだ。

 瞼を閉じ、時折長いまつ毛を震わせる彼女の寝顔は、息子とよく似ている。

 風邪をひかないように布団をかけ直してやると、男は部屋から出た。

 昨日からずっと繰り返しているルーティーンだ。


 男は大きなプロジェクトを終えたばかりで、今ある仕事は報告書類を作ることぐらいしかない。たまに打合せが入るが、それも端末タブレットを使えばいつでもどこでも出来る。

 彼女の看護をしながらでも、充分いつもの仕事を行えた。


 彼女は最愛の息子の愛を独占する憎き相手だが、彼は割り切って看護をしていた。今彼女に何かあれば、自分が息子から責められてしまうだろう。それだけは避けたかった。


 結婚制度がまだあった頃、子をめぐる父母の争いはそこかしこで起こっていたらしい。過去の記録を見れば、九割がた母親が勝利していたそうだ。

 確かに、このままでは自分は息子の母親に負けてしまうだろう。


 父親が母親に勝つ方法はないのだろうか? 

 端末のディスプレイを叩き、思いつく単語を入力する。しかし、彼が望むような情報が映し出されることは無いのであった。

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