第5話
女がこの施設に来て二週間が経った。
当初はろくに眠れないぐらい酷かった咳の発作もかなり治ってきた。
「先生のおかげです」
氷のように表情が固まった男の顔を見上げ、女はにっこり微笑む。彼女は息子の父親のことを『先生』と呼ぶようになっていた。
「一時的に症状が治まっただけだ。まだ油断するなよ。シャワーと食事、手洗いに行く時以外はベッドにいろ。君に何かあったら
「あら、大丈夫ですよ」
「駄目だ」
過保護過ぎやしないかと女は心の中で苦笑いする。
夜間も、彼女が少し咳き込んだだけで男は隣の部屋からすぐさま飛んできた。日中は二時間に一回検温に来る。彼は医者と言っても研究者寄りの立場らしいが、本業に差し障りはないのだろうか。
それに、こんなにきれいで広めの個室をいつまででも借りていてもいいのかとも思う。シャワーもお手洗いも完備されていて簡易キッチンもある。しかも部屋には二十四時間自動清掃機能が働いている。掃除をしなくても床にチリ一つ落ちていない。
彼女はそわそわしながら、白衣の男に尋ねた。
「この個室の使用料、お高いですよね……? もう、大部屋に移ってもいいと思うんですけど」
「ここは俺の自室だ」
「えっ」
「軍医は何かと呼び出されるからな。施設内で暮らしたほうが時間の
「えっ、え、じゃ、じゃあ、先生はどこで寝起きしているのですか?」
「隣りの部屋にも間仕切りカーテンの向こう側にベッドがある。そこで寝ている」
水まわり設備もついている、やけに豪華な病室だと思っていたが、白衣の男の自室だったなんて。半分仕事で使う部屋のようだが、本当に自分がここにいても良いのか気になる。彼の職場の人間はどう思っているのだろう。
「元気になったと過信せず、今日もベッドで寝ているんだぞ。……ああ、そうだ」
一度背を向けた男は、何か思い出したのか、もう一度女の方を振り向いた。
「俺は明日、朝から出かける。本棟で軍事演習があるんだ。昼過ぎまで戻ってこないから」
「分かりました」
「もしも具合が悪くなったら、ブザーを鳴らすか、余裕があるなら端末を使って他の医者を呼べよ」
「はい」
女が返事をすると男は出ていった。
明日は白衣の男が出かける。彼女にはある考えが浮かんでいた。この二週間、彼にはずっと世話を掛けっぱなしだった。何かお返しが出来ないかと頭を回転させる。
「あっ……」
女はぽんと手を打つと、ベッドサイドにあった
検索キーワードは『お弁当 喜ぶ 男性』だ。
外出するのなら、昼食が必要なはず。何か食べやすいものを準備したら喜ばれるかもしれない。
「先生、何がお好きなのかしら……」
この部屋の冷蔵庫には色々なものが常備されている。作ろうと思えば何でも用意できる。簡易キッチンには調理器具や調味料もあった。吊り戸棚の中には温度調節可能な四角い箱やミニトートバッグもある。お弁当作りに必要なものがここには揃っていた。
「あっ……先生の注文履歴!」
食事の注文アプリは白衣の男と共有していた。
彼の注文履歴を見れば、好きなものが分かるかもしれない。……と女は期待して調べたが、毎日男は『日替わりバランス栄養定食A』を注文していた。選ぶのが面倒なのか、はたまた食の好みがないのか。
好きな食べ物のヒントが得られず、彼女はアプリを閉じる。
「う~ん。ここに来た初日に、たまごスープとトマトスープが美味いって、言ってたわよね……。たまごとトマトが好きなのかしら……」
天井を見上げながら、つい、独り言が漏れる。
白衣の男はまめに様子を見に来てはくれるが、すぐにいなくなってしまう。情報が足りない。
出来れば喜んで貰えるものを作りたい。
女はまた、端末を手に取った。
◆
翌朝。
「おい、入るぞ」
「どうぞー」
ノックをすると軽快な明るい声が返ってきた。
少しホッとしながら白衣の男が扉を開けると、そこには女が立っていた。手には何か袋のようなものを持っている。
「先生、朝から出かけるんですよね? 私、お弁当を作ったんです。良かったらお昼に召し上がってください」
袋をハイと手渡された白衣の男は、ぱちぱちと瞬きする。
隣りから何かごそごそ物音がするな、とは思っていた。冷蔵庫のものは自由に使っていいとは言っていたが、まさか自分のために弁当を拵えるとは。
男は完全に女のことを、息子からの愛を奪い合うライバルだと認識していた。敵から塩を送られるとは思わなかったのだ。
「は……? 弁当? 俺に?」
「先生に、いつもお世話になっているお礼です!」
「別に世話なんて。俺は息子が悲しむ顔を見たくなくて、君を助けただけだ」
「それでも、お礼をしたいなぁって思ったんです」
息子の母親は義理堅い女だった。
男はどうして良いか分からず、
今までの人生で、女性から食事を作って貰った経験はない。彼は生活のほとんどを軍の施設内で完結させていて、軍内では彼の偏屈さは昔から有名だった。誰も彼にアプローチをかけようとはしなかったのだ。
「今日のところは受け取るが、朝からの食事作りは推奨しない。朝は咳の発作が出やすいんだ」
「あ、お弁当の中身はトマトと卵のパンドミ包みです」
「聞いているのか?」
「聞いてますよ? 中身は保冷されていますので、お昼まで待つと思います。水筒の中身はあったかい紅茶です。ササッと作ったものですから、私、別に疲れていませんよ?」
「…………ありがとう」
「いいですよ!」
身体が回復すると共に、女の性格が変化した。いや、もともとこういう性格なのかもしれない。けっこう、ぐいぐい来るというか。
「夕方には戻るから、安静にしていろ」
「はい。先生も頑張ってくださいね」
「……ああ」
軽く検温だけして、白衣の男は弁当が入ったミニトートバッグを持って外へ出た。
何だか自分の血圧が上がったような気がすると男は思う。
今日は帰りにクリーンルームへ寄ってこよう。最近、欲を発散出来ていないから、息子の母親なんぞによからぬ感情を抱きそうになってしまうのだ。
男のなかで女に対する感情が、変化しつつあった。
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