第10話

「ああ、良かった、戻って来た!真緒さん!ちょっと来てくれるかい?」


上がって来た警戒アラートの対策会議から戻ると、フロアの奥の室長席から声がかかった。


立ち上がって手招きしているのは、直属の上司である西園寺辰馬だ。


「辰馬さん、どうされました?」


養成機関アカデミーの立ち上げに当たるメインスタッフは、業界の主要派閥の中から選ばれたので、ここには西園寺も幸徳井も勘解由小路も大勢いるので、大抵が下の名前か役職で呼ばれる。


なので、この呼びかけは極々一般的なのだが。


辰馬の隣に居た彼より頭半分ほど大きい男がこめかみを引きつらせてこちらを振り返った。


何にイラっとしたのか察してしまう自分が恐ろしい。


「真緒、お帰り。待ってたんだ」


わざとみんなの前で真緒を呼び捨てにすることで彼の中の虚栄心が満たされるのならどうぞご自由に。


「お疲れ様です」


仕事場ではあくまで上司と部下なので、さらりと躱して指示をくれる辰馬に向き直る。


その途端。


「真緒に相談があるんだ」


視界を遮るように目の前に割り込んだ龍詠に、辰馬が斜め前で苦笑いしている。


あんたは子供か旦那様!!!


怒鳴りたいのをぐっと堪えて、しぶしぶ視線を合わせれば、やっと彼が目を合わせて笑った。


その事にホッとしている自分にげんなりしつつ、どうしました?と小首をかしげる。


報告書もすぐに上げたいし、今晩はシステムのメンテナンスも入るので、用件は手短にお願いしたい。


お願いだから、真緒は可愛いとか、会えて嬉しいとか言いませんように。


真緒の質問を受けて、龍詠が一つ頷く。


「観測部門の部屋を、移動させたいなと思ってな」


「は?」


管理部門ウチからここって結構距離があるんだよな。階も違うし。何かあった時不便だろ?」


「・・・・・・あの、室長?心配されている不測の事態とは?」


「え、色々あるだろ?ほら、お前の具合が悪い時とか。あとは俺が気が向いた時にすぐに行けない」


扱く真面目な顔で帰って来た返事に、頭を抱えて叫びださなかったことを褒めて欲しい。


真緒は、大きく開いた口をいったん閉じた。


落ち着け、冷静になれ、ここで叫んだって真緒が一人恥をかくだけだ。


龍詠は今の自分の発言のどこに問題があるのか分かっていないし、そもそもこの発言自体正論だと思っている。


やばい、絶対どっかで頭をぶつけた拍子に、ねじを1、2本落っことしたのだ。


「ん・・・・・・っと・・・・・・辰馬さん、すみません、ちょっと席外しますね!?」


へらりと愛想笑いを上司に向けて、一瞬だけ振り返って倉橋伊夜に目配せする。


即座に親指を立てて満面の笑みが返って来た。


最悪だ、思い切り楽しんでいる。


これは戻ったら質問攻めコースだが、致し方無い。


ちょっと来て、と龍詠の手を掴む。


と、立ち止まったままの彼がへにゃりと幸せそうに笑った。


不味い、と思った時には、彼が口を開いた後だった。


「・・・真緒から初めて触ってくれた」


目を細めて囁かれた言葉に間違いはないけれど、結婚して8か月の夫婦としては異常だし、そんな事わざわざ言わないで欲しい。


するりと滑った指先がしっかり絡め取られる。


「お願い黙って!?」


同僚のキャーっという黄色い悲鳴と、男性陣の驚いたような表情から逃げるように早く、と促す。


これではまるで、真緒が龍詠を連れ出したいみたいじゃないか。


いや、実際連れ出したいのだけれど。


出来ればどこかに埋めてしまいたいのだけれど。


小走りになって廊下に出てから、行き当てが無かったことに気づいたが、立ち止まるわけにもいかないので、そのまま廊下の奥へと進む。


この先は会議室と資料室なので、空いていそうな部屋に入るしかない。


「後で俺から辰馬さんに連絡入れるから、時間は気にしなくていい。このままどこか行こうか?」


「寝ぼけてる!?それとも病気!?」


「惚気たい」


「今の話聞いてた!?」


嫌だもう、まったく会話が成立しない。


これまで、まともに夫婦らしい会話すらしてこなかった弊害なのか、彼の気持ちがさっぱりわからない。


いや、分かっているけれど、頭の中が分からない。


真緒の知る養成機関アカデミーの実務責任者である管理室長は、責任者権限で妻の職場を移動させるような男では無かったはずだ。


それもこんな死ぬほどくっだらない理由で。


真緒の焦りも混乱もどこ吹く風で、龍詠はこの逃避行を楽しんでいるようだ。


本当にどこまでも迷惑この上ない。


「聞いてたよ。それより、二人きりになりたいなら、こっちだ」


ぐん、と腕を引かれて振り返れば、彼が首から下げている社員証を壁に設置してある認証機に翳したところだった。


ピピっと解錠音がして、龍詠がドアノブに手を掛ける。


プレートの無い部屋は、真緒の知らない部屋のようだった。


中は機材保管庫になっているようで、使われていないキャビネットや、椅子が乱雑に置かれている。


「どうだ?これで二人きり」


手近な椅子を引き寄せて座るように促す龍詠の顔と、部屋のドアを交互に見やる。


「二人きりになりたいわけじゃ・・・いや、誰かいても困るけど・・・あ、こ、困らないけどね!?一応夫婦の話だから!」


彼と二人は言いようのない不安があるが、あのフロアで大声でこの後のやり取りをするわけにはいかない。


彼の名誉と真緒の心の平穏のために。


「うん。俺は夫婦二人きりがいい。今日も遅くなりそうだから」


パジャマ姿の真緒には会えそうにない、としょげた声を出されて、真っ赤になる。


「帰りが遅くなるのは分かった。それはいい、そうじゃなくて!さっきの話!何の冗談?まさか本気で言ってるの!?モニターの設置と配線でどんだけお金かかったと思ってんの!?」


あんた責任者でしょ!と本気で詰れば。


「じゃあ、俺の部屋だけそっちに移動させるか」


その方が安上がりだよな、と真面目腐った口調で言われてもう無理だと頭を抱える。


「怒らないから言って!どこで頭ぶつけたの!?どっかで事故にあった!?それか誰かに襲われた!?」


「だからなんでそうなる」


「頭がおかしくなったとしか思えないからでしょ!」


「・・・・・・俺がお前の側にいたいと思うのは、可笑しなことか?」


俺たちは夫婦だぞ、と印籠を出されて、だーかーらー!と地団駄を踏む。


誰か、旦那様の頭のねじ探してください。

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