第2話

どうしよう。


時空が歪んだとしか思えない。


真緒の記憶が正しければ、3分前まで西園寺夫妻はただの契約夫婦だった。


そこに愛は無かった。


二人の間に存在していたのは、逃げられない現実と、義務と責任、ただそれだけ。


の、はずなのに。


「俺たちは夫婦だろう?なんでそんな他人行儀な呼び方なんだ?さんは要らない。呼び捨てにしてくれ、それか、龍でいい」


ぎしりと革張りのソファーを揺らして、龍詠がピッタリと身体を密着させてくる。


腰に回された腕が気になってしょうがないのに、その上急に呼び名まで指摘されて、さすがに頭が回らない。


向けられる眼差しには、誰がどう見ても愛情と慈しみが溢れているし、何ならこちらの愛情を乞うような妙な色気も含まれている。


これじゃあまるで、彼が自分に恋をしているようじゃないか。


顔合わせのお見合いからこちら、呼び方を変えろ、なんて一度も言った事無かったくせに。


「っは!?なんで急に・・・あの、そ、それよりか、かかかお!」


そんな甘ったるい表情で詰め寄ってこないでと必死に言葉を紡ぐが、焦りすぎて意味を成していない。


けれど、龍詠は嬉しそうに目を細める。


「え、なに?俺の顔に何かついてる?」


ついでとばかりにソファーの座面を握りしめていた真緒の手を捕まえて、自分の頬に当てて来た。


出会った頃から冷たい印象を抱いていた切れ長の目が、やんわりほどける。


少し目尻が下がるとその分また無駄な色気が増した。


そう、西園寺龍詠は、無駄に顔がいいのだ。


世間をにぎわすアイドルのような甘いルックスではないが、涼やかと称するに相応しい通った鼻筋と印象的な切れ長の目を持つ彼は、間違いなく男前の部類に入る。


そんな男が軽く首を傾げてこちらを覗き込んでくるのだ。


結婚するまで、いや、結婚してからも異性とは縁遠かった真緒に、この不意打ちは完璧なクリティカルヒットだ。


「ひぎゃっ!」


彼の顔を直視することが出来ずに、カエルが潰れたような声を上げて必死に自分の手を取り戻そうとするが、荒事を片付けることもある龍詠に引っ張り合いっこで敵うはずもない。


面白がるように手のひらに頬を擦りつけられて、ぶわっと羞恥心が膨れ上がった。


こんな形でこの男の体温を知ることになるなんて。


「照れるなよ。俺も恥ずかしくなるだろ?・・・・・・こんな触れ合いで真っ赤になるのか・・・」


嬉しそうに目を細めた龍詠が、チラッと上目遣いでこちらを見上げて来た。


わざとなら天晴れだ。


完全に思考回路が停止させられた。


だってあなた夫婦生活しなくていいって言ったでしょ!?


キスはおろか手をつなぐことさえしてこなかったくせに!!!!


頬ずりしていた手のひらを口元に引き寄せて、軽く歯を立てられる。


キスならともかく(ともかくでもないが)甘噛みされるなんて、当然人生で初めてのことだ。


「ちょっ」


「可愛いな」


おまけのようにぺろりと舌で味わわれて、間違いなく手汗を掻いているだろうことに気づいて、死にそうになる。


西園寺龍詠という男は、真緒が思っている以上に底が知れない人物だったようだ。


こんな百戦錬磨みたいなやり口で愛人ふたりを口説き落としたのか。


チリっと走った胸の痛みそのままに彼の名前を呼ぶ。


「龍詠さんっ!」


「龍」


「うぐ・・・あの」


「龍」


言った側から訂正されて、唇を引き結ぶ。


足りないことは承知の上で必死に目力を込めて睨みつけてみたけれど、にやっと笑い返されるだけだった。


完敗だ。


経験値の差があり過ぎる。


愛人の存在は隠そうともしないくせに、真緒の前では性的な匂いを一切させなかった男が、いま全力で契約妻を口説きにかかっている。


あり得ない現実に、眩暈がする。


「・・・龍・・・あのっ」


観念して身内が呼ぶ彼の愛称を口にすれば。


「うん。なに?」


聞いたこともないような甘ったるい声が返って来た。


耳を塞ぎたいので今すぐ両手を解放してください。


「顔が赤い!熱でもあるんじゃないの!?ねえ、ほんっとにどうしちゃったの!?あなたほんとに西園寺龍詠!?」


「そうだよ。お前の夫で唯一の男だ」


「・・・そ、それはそうだけど・・・」


その言い方だとまるで二人が恋愛関係にあるようだ。


それだけは絶対にあり得ないのに。


業務報告の一環のようなメッセージのやり取りはしょっぱすぎたし、会議の後は即解散で一緒に食卓を囲むのは親族の集まりの時だけ。


誰がどう見ても彼は自分を好きではなかった。


だから目の前で度々愛人からの電話にも出ていた。


最初は唖然として、次からはそう言うもんかと割り切ったけれど、気分が良くはなかった。


それなのに。


「なあ、真緒。俺はずっとお前に会いたかったよ」


まるで運命で定められた恋人に告げるようなセリフである。


噛みしめるように呟いた夫の熱い眼差しと言葉に、一瞬ジーンと来たがすぐに我に返った。


恋愛偏差値ゼロ女、チョロすぎるぞしっかりしろ!


目の前にいるのは、お飾りの妻でいいと初対面で言い放った男である。


「あの・・・視力が急に落ちたりした?私を愛人と間違えてない!?」


疲れすぎて色んな感覚がマヒしてしまった可能性だって、無きにしも非ずだ。


きっとそうに違いないと真剣に問い返せば。


「愛人?俺に?」


心外だとでも言うように眉をひそめた龍詠の表情は、本気で戸惑っているようだった。


演技なら上手すぎる。


間違いなく主演男優賞モノだ。


「私の目の前で何度も電話に出てたでしょ、ナオミさん?とキリコさん、だっけ?」


覚えるつもりはなかったけれど、何度も呼びかける声を聞けば嫌でも頭は記憶する。


証拠は挙がってんのよと顎を逸らして精一杯の強気で出た。


こんな形で、夫の不義理を問い詰める羽目になるなんて。


「・・・・・・どっちも仕事相手で、一人は半妖のオカマで一人は引きこもりの男だ」


どっちがどっち?と思わず言いかけて押しとどめる。


「そういう言い訳は」


こんな超定番のセリフを口にしている自分に心底驚きだ。


これじゃあまるで本物の夫婦みたいじゃないか。


「心配なら今ここで電話してやる」


はっきりさせようと喜色満面でスマホを取り出した龍詠を慌てて押しとどめた。


「いや別に心配では!」


そこまで契約夫に興味はありません!絶対に。


慌てて全否定した真緒のことをなぜかニヤニヤした顔で見つめ返した龍詠が、スマホをポケットにしまった。


そして再び背中に腕が回される。


「あのさ、真緒・・・・・・お前の身辺警護はさせてるけど・・・・・・してないよな?」


「してないって、なにが?」


質問の意図が分からずに怪訝な視線と共に返せば。


「浮気」


さも嫌そうに龍詠がその言葉を口にした。


「っはあ!?」


あなたはともかく私には一生縁の無い言葉ですよそれは!


素っ頓狂な声を上げた真緒にホッとした様子で龍詠が頷いて、切り返した。


「昔お前に言った事撤回させてくれ。浮気なんて絶対させない」


どうしよう。


契約夫はやっぱりどこか壊れてしまったようだ。

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