第3話

生まれは恐らく大陸のどこか。


肌と目の色から、恐らくアジア系の誰かとロシア系の誰かの掛け合わせと思われるが、血筋は定かではない。


物心ついた時には香港にいて、ごちゃ混ぜの人種の中でごちゃ混ぜの言葉を聞きながら放置されて勝手に育った。


最初に理解した単語はマオ


面倒を見てくれていた中国系マフィアの下っ端が暮らしていた雑居ビルに住み付いていた黒い野良猫をヤニ臭いオッサンたちが大層可愛がっていたので覚えた単語だ。


運び屋の真似事で日銭を稼いでいるうちに、壊れた古いトカレフを手に入れたので、自力で直して射撃の練習を始めたら、見込みがあると褒められて、得意になって練習を続けたらそのうちそれが特技になった。


手先の器用さは、たぶんどっちかの親の遺伝なのだろう。


これだけは感謝している。


初めて大陸から出たのは11歳の時で、混み合う船に揺られて酔って死にかけて、ようやく辿り着いた長崎の地は、眩しいほどに輝いて見えた。


異国の空気と街の気配と人々の表情に圧倒された。


だから、完全に油断していたのだ。


親子連れの観光客を装って荷物を運ぶ売人とはぐれたことに気づいた次の瞬間、妙な気持ちになった。


このまま人混みに紛れてしまえば、自分はこの国の子供になれる。


通りを行き交う制服姿の子供たちの晴れやかな笑顔に、虚しさとやるせなさがこみ上げてくる。


この子たちは全員帰る場所があるのだ。


果たして家と呼べるかも分からない、埃っぽいビルのスプリングの軋んだ古いベッドには哀愁なんて感じない。


それでも、仕事を終えて戻れば誰かが声を掛けてくれた。


立ち止まった拍子に真横を親子連れが通り過ぎて行った。


自分より背の小さい男の子の手を引きながら、母親が知らないメロディーを口すさんでいる。


仕事で会う日本人が気まぐれに教えてくれた単語が聞こえて、自分がいま何処にいるのか分からなくなった。


聞こえて来たのは星の歌で、この子供は今日食べるものの心配も、明日寝る場所の心配も必要ない場所で生きているのだ。


”幸せ”


これがそうなのだとはじめて理解した。


薬を届けにやって来る白髪交じりの男が、酔っ払うたび歌っていた、バラ色の人生。


エディット・ピアフが怒鳴り込んで来そうなハチャメチャな音程は、不思議とその意味だけはきちんと届けてくれていた。


たぶん、あれはこういう光景を唄った歌だ。


空っぽの自分の手を見下ろして、さあどうする?と問いかける。


一歩足を踏み出せば日差しが降り注ぐ見知らぬ世界。


一歩後ろに戻れば、馴染みのある日の当たらない世界。


あの手が、欲しいか?


それとも、帰る?


答えの出ない質問がぐるぐると頭の中を回っている。


どっちだ、どっちだ、どっちが正解なんだ。


拳を握りしめる力だけが強くなって、呼吸が浅くなっていく。


そして、その時は来た。


「キャーっ!!!!!」


甲高い女の悲鳴が聞こえた直後、馴染みのある発砲音が続けざまに2発。


それを皮切りに一気に大通りが騒がしくなった。


「撃たれた!」


「逃げろ!」


「誰か救急車!」


「警察は!?」


飛び交う怒号と悲鳴と叫び声。


恐らく取引を知った反対勢力が乗り込んできたのか、秘密警察が動いていたのか。


いくつかの母国語が飛び交って、数人の男たちが散り散りに走り去っていく。


街中で突如始まった銃撃戦に、さっきまで穏やかだった大通りは一変して地獄絵図と化した。


隠れる場所を探して逃げ惑う人々の中で、ポツンと佇んで動けないのは自分だけ。


遠くに、ここまで親子の振りをして一緒にやって来た売人の男が地べたに倒れているのが見えた。


目を閉じることも出来ないまま事切れた男の光の無い眼差しがこちらを見ている。


逃げるな、ということか。


無意識に後ろ脚を引いたら、細い路地から男が飛び出して来た。


頬から血を流しながら血走った眼でこちらを視認する。


彼の手元に護身銃が見えた。


男が、次の瞬間視線を上に持ち上げて大きく目を見開く。


自分では無くてその後ろに迫る誰かに気づいて、男が喘ぐように意味を成さないことを叫びながら銃を構えるが遅い。


錯乱状態で構えた銃が命中する確率は皆無。


命運尽きたとはまさにこのこと。


たぶん、自分は選択肢を間違えた。


でも、どこから?わからない。


そんなことをぼんやり考えていたら、急に視界が暗くなった。


反対側の通りから飛び出して来た誰かが自分を抱き込んだのだ。


自分より背は高いけれど、大人、ではない。


庇うようにぎゅうっと抱きしめられて、広がった影が彼女の髪だと気づいた瞬間、その子の首元を鋭い風が切り裂いていった。


声にならない悲鳴を上げて、けれど彼女は抱きしめる腕を緩めない。


ばくばくと心臓が大きな音を立てた。


それが、自分のものか、彼女のものかもわからない。


下げた視線の先で、その子が下げているポケットのチャームが目に入った。


「・・・・・・マオ


震える声でそれを口にした途端、盾になっていた彼女が腕の中に向かって柔らかく呼びかけた。


「うん。大丈夫だよ」








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