第8話

血塗れの首の傷を押さえようともせず、必死に自分より小さな男の子を守ろうとしてくれた彼女の姿は、気づいたら何処にもいなくなっていた。


誰かが通報したらしく、ようやく駆け付けた大勢の警察官と、複数台の救急車。


泣き声、叫び声、ざわめき、サイレンの音。


それらがごちゃ混ぜになって押し寄せて来て、一瞬強く目を閉じて、開いたら、目の前に見知らぬ老人が立っていた。


和服姿に洒落た中折れ帽を被ったその老人は、血糊のついた龍詠の頬をゴシゴシ拭いながら静かに言った。


『向こうに戻るよりはいくらかマシだろう?』


顎をしゃくって背後を示した彼の視線の先では、手錠をかけられた男と、ブルーシートで覆われた遺体がいくつか。


単語程度の言葉しか聞き取れなかったはずなのに、彼の言葉はきちんと理解することが出来た。


『こっちもこっちで複雑だが、なぁに、そのうち慣れるさ。さあ、一緒に戻ろうか』


軽く手招きされて、少し腰の曲がった老人の隣に並ぶと、すぐに目の前に黒塗りの高級車が止まった。


『探しましたよ!この辺りはもう手が入った後のようです。いかがなさいますか?』


『ああ、いい、いい、構わん。それよりコレを拾った。綺麗にして飯食わしてやってくれ』


『は?拾っ ・・・!?どこの子供ですかコレ!』


『大陸からの迷子らしい。いくらか素質はある。お前さん、コレ、得意だろ?』


人差し指を立ててピストルを真似てみせた老人を驚愕の表情で見上げれば、豪快な笑い声と共に、じじいに隠し事はできんよ、と背中を叩かれた。


のちに彼がその界隈では有名な西苑寺の当主で、次代が望む未来のための人材確保の一環で拾われたことを知る。


一通り育成教育は受けたが、陰陽道の才能はイマイチで、結局自由な当主の護衛として使われることになり、そのまま雇用権が次代に移った後もその役割は続き、養成機関アカデミー発足という兼ねてからの次代の目標が達成された暁には、責任者になれ、と一番面倒臭い役割を押し付けられた。


拒む権利なんて龍詠にはなかったし、考えるのも面倒だったので黙って引き受けることにした。


やりたいことも特にないし、どうせ見知らぬ誰かに救われた命だ。欲を出すつもりもない。


それでも時々、猫のチャームと、あの女の子を思い出した。


銃弾が飛び交う非現実のような世界で、命がけで誰かを庇うのはどれほどの勇気が必要だったことだろう。


龍詠が同じことを出来るか、と問われれば、答えは否だ。


迷わず銃弾から逃げるほうを選ぶ。


物心ついた時からずっとそうしてきたのだ。


危なくなったら逃げろ。後ろは振り向くな。間に合わなかった仲間のことは忘れろ。


生きるすべとしてそう教わって来たし、身近な人間はみなそうしていた。


だから、ある日突然誰かが死ぬなんてしょっちゅうだった。


こっちに来てからそれはなくなったが、陰陽師が必要とされる世の中は、つまり誰かの悪意や呪いがはびこっているということだ。


銃弾を浴びることはなくなったが、その代わり、胃の奥が冷えるような負の感情の澱みに苛まれることは日常の一部になった。


誰かが残した思念や遺恨で、町が一つ消えることもあったし、ビルが倒壊する事もあった。


ある意味別の種類の同じような危険と隣り合わせの日々だった。


そして、それらから解放される代わりに、結婚を押し付けられた。


西園寺を名乗ることになった以上、何かしらの重荷は背負っていくしかないと思っていたが、まさか同業他社の娘を娶らされるとは。


斜め上の指令に頭が痛いなと思いながら、結婚相手について調べるうちに、自分たちは意外と似た者同士なのかもしれないと思った。


西園寺とはかけらも血のつながりのない、名前だけの男に嫁がされる羽目になった気の毒な花嫁は、色々な事情を抱えた女性だったのだ。


これに勝る陰陽師なし、とお歴々を唸らせたという勘解由小路の当主は、西苑寺とはまた違ったタイプの世捨て人のようで、類を見ない能力の高さこそ褒められるが、彼の持つ異質さと奔放さに配下は日々泣かされているらしい。


そんな勘解由小路の傍系に生まれた彼女の、華やかな幼少期の記録はぷつりと10歳で途切れていた。


以降は、3歳違いの弟が台頭を現し、養成機関アカデミーの育成部門でその力を発揮している。


絵にかいたような栄光と挫折を味わって来た彼女は、今では家のお荷物状態。


西園寺に優秀な血を分けてやるのは惜しいが、お荷物のお払い箱にするにはちょうどいい。


幸徳井と勘解由小路の重鎮が考えそうなことである。


年の合う女性が彼女だけで、といけしゃあしゃあとのたまった禿げ頭の男の顔はもう覚えていない。


もう必要ないからと人身御供同然に差し出される花嫁のことが、少しだけ気の毒に思えて来た。


勘解由小路に生まれたが故に、結婚さえ自由に出来ないのだ。


思春期を迎えてから、先代やその側近たちに数人の女性を紹介されたが、さっぱり興味が持てずに、中途半端に通った学園生活でも、青春の甘酸っぱさとは無縁のままだった。


自分の心と身体が反応するのは、時折夢で逢えるあの子のことを思う時だけ。


猫のチャームと、赤く染まった生成りのワンピース。


一生このままだろうから、結婚相手にはせめて自由を差し出そうと決めた。


西園寺の名前だけ与えてやって、後は庇護下において好きにさせてやればいい。


そのうち男でも出来たら、どうにか頑張って貰って、生まれた子供の養育権だけもぎ取ればそれでいい。


そんな風に思っていたのに、突きつけられた現実は、とにかく甘くなかった。



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