それ以降、元貞は悪夢をたびたび見るようになった。

 具体的な内容はほとんど忘れてしまう。覚えているのは「落蹲」が執念深く追いかけて来ることだけだ。

 殊にあの人を射るような眸ばかりが浮かんでは消え、遠くなっては近くなり、近くなっては遠くなるのがひたすらに恐ろしくただただ逃げ続ける。

 そしてその眸が間近まで迫ったところで叫び声を上げて飛び起き、高子や下人たちに迷惑をかけるのだ。

 幸いというべきか、連日連夜というほど見ることはない。だが寝るのが怖くなるという副作用をもたらし、元貞の心身はおろか自尊心までも傷つけていた。

 結局あれから「落蹲」がどうなったのかは、全く分からぬ。本人が宣言した通り、これまで会っていた高子の前にすらも一切顔を見せなくなったからだ。

 だがそれでも、時折あの狂気と妄執に満ちた眸に見つめられている気がして逃げ出したくなる。

 どのみち野垂れ死に覚悟の男、長く生きるつもりはなかろうと勝手な決めつけをして自分の心を収めようとするが、死してもなお守護神となりたいというあの手紙を思い出しては顔を覆った。

 高子はあの時一度問いに答えて以来、黙して語らぬ。

 語らせる気もないのだが、元貞には高子が深く心の傷を押し込めているような気がしてならない。

 高子は事件が起こったあの時、既に自ら「落蹲」を遠ざけ続けていた。

 それも「眸の色がおかしくなっている」という理由でである。普段から人の眸を嫌っている高子にとって狂気に満ちた視線なぞ大変な苦痛だったはずだろうし、当然のことだ。

 そんな狂気の眸を持つ父親が自分のみならず良人にまで妄執の色を見せ、その心身を苦しめていることに、どれだけ悲しみや苦しみを、あるいは責任を感じていることか。

 いやもしかすると「落蹲」のあの眸は落魄した後になったものではなく、生まれつきのものではあるまいか。高子は、その眸に見守られて育ったがゆえに他人の眸が苦手になったのではないか……。

 そこで元貞はかぶりを振った。夫婦でもしょせんは他人同士、いくら推測を重ねたところで今まで本人が受けて来た影響なぞ正しく知れるわけもない。

 ふっとふすまの向こうに、わずかに見える高子の方を向く。

 その脳裡に「落蹲」の影がちらついて、急に高子のことが気味悪くなった。

 あの狂気の眸が現れ、思わず思い切り眼をそらす。

「う、あの老爺め……厄介なものを残して……」

 思わず高子をけなしたとも取れるようなことを言ってしまい、はっとなった。

 これをもし「落蹲」が聞いたならば、どこかの物陰から押っ取り刀で自分を斬りに来るのだろうか。

 あの狂気の眸を携えて、ぎらぎらと睨めつけながら裏切者とめった切りにするのだろうか。

 そんな馬鹿なことがあるか、そうも思う。

 しかし一方であの眸に見つめられ続ける恐怖は、死ぬまで一生つきまとうものなのだろう。元貞は既にそう確信し、あきらめの境地に入っていた。

「近江長者が聞いてあきれる……」

 そう自嘲すると、元貞は蔵の鍵束をくるりと回した。

 その軌跡のごとく回る輪廻の中で、自分は無事あの「落蹲」から逃れ得るだろうか。

 来るかも分からぬ来世を思う元貞の眼の先を、静かに羽虫が飛んで行った。


<了>

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苫澤正樹 @Masaki_Tomasawa

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