子が無事に生まれて家が落ち着いた頃、元貞は蔵のある場所へと向かい扉を開いてみた。

 これがまたすごいもので、一体どこから持って来たのかと思うほどの金銀財宝が天井まで積み上がっている。京中から銭一枚まで集めてもこうはならぬだろうというほどの非現実的な量に、かえってやましい代物と思えなくなってしまった。

 ともかく一切詮索せず、蔵の財を使い放題に使い続ける。ただ高子を悲しませればあの「落蹲」がどこから飛んで来るか知れぬと、女遊びなど身を持ち崩しそうなことには一切使わなかった。

 近江の土地も自分の荘園として経営を始める。長く主人が行方不明だったために荒れていたが、再度開墾して何とか収穫が上がるようになった。蔵の財もこの事業に大いに役に立ったのは言うまでもない。

 いつしか元貞は「近江長者」と呼ばれるようになり、近所の者から領民にまで広く慕われるようになった。ついには郡司が世襲でなければ、充分にその地位になり得るほどの力まで持ったのである。

 そんな日の夕暮れ時、近所の者から手紙を渡された。何でも人から頼まれたという。

「随分大げさな……まるでもうしぶみじゃないか。うちは太政官じゃないんだぞ」

 相当値の張る上等な紙でていねいに折られた手紙に、元貞はあきれ半分に手紙を開いた。

 本文を見れば仮名まじり、はて女の文かと思ったがどうにも筆跡が男である。

 冒頭を読んだだけで、元貞は手紙の主が「落蹲」その人だと気づいた。

 それによると……。

 元々「落蹲」は近江国に住まう長者の家柄の者で、あの財は代々に渡って積み上げたものなのだという。

 「落蹲」は当主になるやその商才を発揮し、数々の商いを成功させて行った。ただでさえ多かった蔵の中の財が天井まで積み上がるほどにまでなったのも、「落蹲」の代になってからである。

 細君を娶って娘の高子を得た「落蹲」の人生が、もっとも輝いていたのがこの頃だった。

 それが一気に転落するきっかけとなったのは、皮肉にも自分の道楽からのことである。

 実は「落蹲」は大変な剣術かぶれで、近所に住んでいた侍たちから手ほどきを受けいっぱしの伎倆うでを持っていたのだ。

 ところがある時、侍たちの顔見知りという者が突如現れ、

「仇討ちをしたい。誰か助太刀をしてくれる者はおらんか」

 いきなりそんな無茶をねじ込んで来たのである。

 これに侍たちはことごとく難色を示し、何だかんだと理由をつけて断った。今から思えば、何か怪しげなものを感じてのことだったのだろう。

 だが「落蹲」は義憤に駆られ、この男の助太刀を買って出た。しかも家を細君にまかせ飛び出してのことなのだから、後から思えば恐ろしい話である。

 男と東海道筋のあちこちを旅しつつ、指示を律儀に守って男の仇探しを手伝う日々が続いた。

 しかし、そんな日常がいきなり終わりを告げる。何といきなりおうりょう使(国司や郡司の管轄下にあった警察組織)に追い回されたかと思うと、盗人として捕縛されてしまったのだ。

 事情を説明しても全く聞き入れてもらえないどころか、

「『仇討ち』なぞ真っ赤な嘘。あの男はな、ただの盗人よ」

 とんでもない事実を突きつけられる。

 男は「仇探しには多少の罪を犯すもやむを得ぬ」なぞとしたり顔で言い、全く侍の流儀を知らない「落蹲」を操って盗みの手伝いをさせていた。そういえばと思い返すが、もはや遅い。

 「落蹲」はそのまま獄につながれたが、こんなことで死にたくないと脱獄を果たした。

 しかし獄から遠くに逃げる最中に崖から転落、顔をしたたかに打ってしまう。

 その結果「落蹲」の顔はあちこち深い傷がついたばかりでなく、医者にもかからなかったせいで皮膚や肉が崩れたままになってしまい、今のように見るも無惨な顔となってしまった。

 ちゅうとうごくの二罪を背負い、崩壊し醜くなり果てた顔。このことが「落蹲」に烈しい自己嫌悪と羞恥をもたらし、表も歩けぬと思いつめさせたのは言うまでもない。

 幸いというべきか、押領使は自分を死んだと思っていた。ならばそのまま死んでいた方が細君や娘のためにもよかろうと、ひっそり隠れ住んでいたというわけである。

 だが一目だけでも旧宅の様子を見たいと思って行ったことで、高子には知られてしまった。

 叫ばれるか倒れられるかと思っていたが、高子は泣いて自分を引き止め一緒に暮らすようにすら言う。

 「落蹲」はそれを固辞する代わりに、定期的に文を交わしたり会ったりを繰り返していた。

「おのれの財産は、聟になる者に全て渡して使ってもらおう」

 そう思い始めたのもその頃である。

 もはや家をつなぐのは高子のみだが、自分のやっていたような大きな商いは出来ぬ。それならば、聟に渡してぱっと使ってもらった方がよいだろう。

 その結果ああして屋敷に忍んでまで元貞に鍵と証文を渡しに来て、散財を約束させるという奇妙な流れになったというわけだった。

「そういうことだったか……」

 思いがけぬ「落蹲」の悲惨な過去に、元貞もしみじみとせざるを得なかった。

 恐らくこうして文を寄越すからには、「落蹲」も本当はあの場で事情を語りたかったのだろう。しかしいつも来る時は忍んでのことゆえ、あんな押しつけがましいやり方になったというわけか。

 だがそう納得しかけて、元貞は急に疑問を感じた。「高子と定期的に文を交わして会ってもいた」と書かれているが、これが矛盾している。

 実はあれから元貞は、高子に一度だけ「落蹲」のことを訊ねた。つらかろうし駄目で元々と思っていたのだが、高子は戸惑いながらもぽつりぽつりと答えてくれた。

 その中で父親たる「落蹲」と何度会ったのか、文を交わしたのか訊いたのだが、

「最初は月に一度は必ずでしたが、ここ数年は途切れがちでございました。……まことに悪いとは思ったのですが、私の方で応じるのがためらわれまして」

 極めて奇妙な答えが返って来たのである。

「お前の方でしりぞけたのか?」

「そうでございます。文の内容もだんだんしつこく私を案ずるばかりになりましたし、会えば会うほど眸の色がどんどんおかしくなって来ておりましたので、やんわりと……」

 高子はそう言うと、眼を伏せて小さく首を振った。

 これを考えると「落蹲」は嘘を書いていることになる。恐らくは高子の気持ちを察して会う数を減らしたのだろうに、今になってなぜずっと会っていたと強弁するのだ。

 そこまで考えて、元貞は自分の脳裡をよぎった推測に戦慄する。

「……まさかあの老爺おやじ、わざと忘れてるんじゃ?」

 このことだ。「落蹲」は娘に遠ざけられたことを認められず、忘れたふりをして自己欺瞞をしているのではないかというのである。

 いや、もしかすると「ふり」ですらないかも知れぬ。ごく自然のままに心が事実に蓋をして、おのれの認識を歪めてしまっている可能性すらある。

 先日会った時の態度から考えても、充分に有り得ることだった。

 そこまで考えて元貞は、手紙をまだ読み切っていないことに気づき再び書面に眼を向けた。手紙はもはや、最後の〆に入っている。


――最後となりますが財も土地もお願い通りにお使いいただけたことに、改めて心よりお礼申し上げます。

その恩に応えるためにもあなたを引き続き影で支え、死んでもあなたの守護神となってお守り申し上げたく存じます。どうぞいつまでもお元気で。


 一見すると何のことはない〆の文だったが、元貞は意味を理解して一気に凍りついた。

(どうして俺の素行を知ってるんだ!?)

 このことである。「落蹲」はあれから一切姿を見せていなかったのに、なぜこんなことが書けたのだ。

 もっとも元貞は、今や「近江長者」として名を轟かす身である。あちこちで大きな商売や事業を手広くしているのだから、縁のない市井の人でもどれだけ財を費やしているかくらいは容易に想像はつくはずだ。

 だからこれもまた、その範囲内で想像したことと思えばいいだけのはずなのである。

 だが元貞はそこを飛び越えて、

(やはりあの老爺、俺のことをつけ回してるのか……)

 無条件に「落蹲」が自分を監視していると思ってしまっていた。

 あの日の余りにも衝撃的な「落蹲」との出会いが、高子と自分に対する異様なまでの執着をはっきりと見たことが、深く深く心に影を落としている。

 とどめは「死んでも守護神となりたい」の一文だ。

 ただの感謝の言葉なのだろう。そう思いたいが、あの狂気と妄執とを知ってしまった今では、死んでもなおつきまとうつもりかとさらに恐怖が募るばかりだ。

 心臓が早鐘を打ち、あの眸の炯々たる色が思い浮かぶ。

 衝動的に立ち上がりふすまや障子を開け立てして、さらには玄関から外に出てまで「落蹲」を探し回る。

 もちろん見知った近所の者しかいないのだが、もはや半狂乱となった元貞には関係なかった。

 どこまでも、どこまでもあの眸が追って来る。

 ついには逃げるように、元貞は東海道を滅茶苦茶に走り始めた。

「去れ!去ってくれ!約束をたがえるつもりはない、お願いだから去ってくれ!」

 必死の叫び声が、広い道の上にはるか遠くまで響き渡る。

 手からくしゃくしゃとなった手紙をだらしなく垂らしながら錯乱して突っ走るのを、人々が半ば逃げ出すようにして避けて行くが、元貞の眼には一切入らぬ。

 ただただその脳裡に浮かぶあの眸だけが、その姿を見つめている。

 ――結局元貞は、夕方に逢坂の関に飛び込もうとしたところを関守に止められるまで、ひたすらに東へ東へと走り続けていた。

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