出入りの医者から、喜ばしい診立てがあったのはそれから半年後のことであった。

「肚にがおりますな。ご懐妊、まことにおめでとうございます」

 やたら腹が重いと言うので見せたら、果たしておめでたである。

 もっとも余りに夢中になりすぎて、半年も毎日のごとくしとねを共にしていたのだ。いつかはこうなるのが自然の理というものであろう。

 一同大喜びであったが、その直後にそれどころではなくなった。

 とにかくつわりがひどすぎる。それも吐き気を通り越し、時に本当に烈しく嘔吐する始末だ。

 幸いというべきか年輩の侍女の中に二人ほど経産婦がいたため、その指導でみな何とか肚を背をなでさするなどして収めていたが、それでも下手すれば数時後には元の木阿弥である。

(これじゃ生む時に心配だな……)

 女は産をする時にも死にかねないし、無事産み終わっても肥立ちが悪ければまた死ぬ。高子と出会うまでまるで女ひでりだった元貞でも、さすがにこれくらいは知っていた。

 ともかく自分が出来るのは不安にさせぬことだけ、そう思い極めて時間の許す限りそばにいてやる日々が続いたのである。

 ――事件が起きたのはそれから三ヶ月、今でいうならば妊娠八ヶ月を超えよう頃のひるがりのことであった。

 その日もつわりに苦しむ高子をいつも通り侍女が何とかさすって収め、やっと蒲団へと寝かせた。

 修羅場が去って夫婦そろって安堵すると、今度は気が抜けて来る。

「悪いがちょっと横にならせてくれ。大丈夫だ、寝はしないから」

 そう言うと高子に便乗して、元貞はごろりと寝転んだ。とにかく心労が半端ではない。

 するといつも次の間へ入って控えるはずの侍女たちが、廊下へとささっと去って行ってしまった。

 これには元貞も眼が点になり、

「お、おい、どこに行くんだ。いてくれないと困るぞ」

 急いで起き上がり声をかけたが、既に聞こえていないのか誰も戻って来ない。いつつわりが起こるか分からぬというのに、この行動は面妖にもほどがあった。

 横にいる高子の方は、半分起き上がって驚いたような顔をしている。

 いや、よく見れば驚いているのではなかった。何やら覚悟したような、来たるべき時が来たとでも言わぬばかりの緊張した面持ちである。

(何なんだ、みな俺の知らんところで何を感じ取ってるんだ)

 わけが分からぬながらもただならぬ予感のした元貞は、念のためと刀を引き寄せてき、いつでも抜刀出来るようにとやや中腰気味となった。

 その時である。屋敷の裏手の戸を何者かが開け立てする音がした。

 下人か婢かとも思ったが、それにしてはそろそろと入って来る風なのがおかしい。いくら主人の部屋が近くとも、そこまで遠慮したら逆に仕事にならぬ。

 足音が近づいて来るのにさらに腰を浮かせて様子をうかがっていると、いきなりすっとふすまが開いた。

(いつの間に……!?)

 驚く暇もなく、男らしき者が紅の衣に蘇芳染の水干を重ねた袖口を差し込んで来る。

 そして、ようやく相手の姿が見えた時だ。

「げえっ……」

 何とそこには、烏帽子もつけぬひっつめ髪の恐ろしいおとこがいたものだ。

 特に顔は眼がぎょろりと飛び出し、顔中しわだらけで鼻が異様に大きい。

 このまま下あごから大きな牙でも生やせば、舞の『納曽利なそり』に使う龍の面・落蹲らくそんそのものの異相だ。

 舞の面としてなら見事の一言だが、人間の生の顔となれば別である。その余りにも開ききりこちらの躰を一心に睨めつけるような気魄で迫る眸は、大の大人でも心胆を寒からしめるに充分だ。

 だが、おびえている暇なぞない。太刀の鯉口を素早く切り、

「曲者だ!たれか、誰かある!」

 思い切り部屋の外へ大音声だいおんじょうで呼ばわった。

 だが、これだけの声だというのに何度叫んでも誰も出て来ない。

 急いで高子を引き連れて逃げようとするも、衣を引きかぶり脂汗を流しながら伏せっているありさまだ。

 そうする間に「落蹲」は元貞に一礼し、静かに語りかけた。

「安心されよ、わしは怪しい者ではない。そう言うてもにわかに信じてはもらえまいが……。まずは座って、落ち着いて話を聞いてもらえぬか」

 泪まで流してそう言うのに、元貞がすっかり毒気を抜かれたのは言うまでもない。

 振り返ると、何と高子まで伏せったままに泣き出していた。

 全く状況が飲み込めぬ。ともあれ相手が神妙である以上、話を聞いてから動いても遅くないと元貞は刀を収め座り込んで「落蹲」と対面した。

「ならばおぬしは一体どこの誰なのだ。ここの家に何か縁でもあるのか?」

 当然の疑問である。何かなければ下人どもが通さぬはずだ。

 さらに恐らくは侍女たちがいなくなったのも、高子の様子がおかしかったのもこの「落蹲」が来ることを分かっていてのことだったのだろう。

 それだけの男とは、一体何者なのか……。

 「落蹲」は一つうなずくと、すっと泪をふき、

「その通りぞ、聟殿」

 とんでもないことをいきなり言い出した。

「む、聟……!?」

「驚くのも無理はあるまい。実はわしは、そこな高子の父なのだ」

 元貞が呆然としたのは言うまでもない。まさかこの醜男がおのれの岳父とは誰が思おうか。

「にわかに言われても信じられまいが、ゆえあって一緒に暮らせぬ身ゆえ……。その代わり、わしの住んでいたこの屋敷を与えて不自由をさせずに来たつもりだ」

 元貞は「落蹲」の言葉に引っかかりを覚えた。一緒に住まぬのは醜い面相をはばかってということなのかも知れぬが、「落蹲」からはそれ以上の何かを感じる。

「それでも年頃となれば見て見ぬふりも出来ぬ。どうにか聟が来てくれぬかと思うようになった。だがどの男もみな冷やかしのように通っただけで、すぐに他の女の許へ去って行くばかりでな」

「………」

「聟殿もそのくちかと思えば、きちんと通い尽くして子までなした。これは相当な覚悟と思い、わしもほぞを固めて遅いところあらわしとて出て来たのだ。どのみちいつかは知れることゆえな」

「………」

「今こうして会うことが出来て、ほっとしておる次第。以後も高子を見捨てず裏切らずにいてくれるのならば、おぬしにこれな財を渡そうと思うておる」

「え?」

 そう言うと「落蹲」は懐からじゃらりと蔵の鍵を五つ六つばかり取り出し、さらにはどこから取り出したか土地の証文とおぼしき紙束までも三つ置いた。

「この家には屋敷の他にも蔵がいくつか、そして近江国には土地がある。これを全て渡すゆえ、たった今からおのれのものとしてくれ」

「そ、そんな……よいのですか」

「よいのだ。やましいところは何もないものゆえ、何の疑いも持たずひたすら心のままに使われよ。いや、そうすると約束してくれ」

「………」

 思いがけぬなりゆきに、元貞は言葉もなかった。

 岳父を名乗る人物が突如現れ、これまた莫大な財産を突如与えて好き放題使えと言い出すのである。さすがに話がうますぎるにもほどがあった。

 しかし「落蹲」の口調はあくまでまじめで、一切嘘偽りを感じない。恐ろしげに飛び出した眼もまたうるんで力なく、眸も必死に乞う者のそれであった。

「わしはもう聟殿の前に姿を見せる気はない。むろん娘の前にも。こんな者の娘と知れては、そしてその肚の子が孫と知れては哀れゆえ」

 そう言うと「落蹲」はちらとおのが娘――高子の方を見る。

 高子はいまだに泣き濡れていた。今までの様子から見るに「落蹲」が自分の父たることも知っていたし、元貞が来る前は何らかの方法で何度も連絡つなぎを取ったり顔を合わせりしたことがあるのだろう。

 以前から「落蹲」の決意を聞いていたのか、今日たった今聞かされたのか。どちらとも知れぬが、これが親子の永遠の別れとなることにただただ悲嘆に暮れている姿は、その疑問を口にさせることを拒んでいる。

 その代わり、元貞は「落蹲」が一つ妙な含みを持たせていたことに対し恐る恐る訊ねた。

「あの……こんなことはするつもりは一切ないのですが、念のため訊かせてください。もし俺が娘さんを見捨てることがあったら、どうするおつもりなのでしょうか」

 その瞬間、「落蹲」の双眸がぎらりと光を放ったかと思うと、

「……怨む。生きていられると思うな」

 地の底から湧き出たような、どすのきいた声でそう言い放ったものである。

「………!」

 簡潔ながら明確な殺意を持ってじわじわと響いて来る言葉に、元貞は戦慄して身を震わせた。

 「落蹲」の眸は恐ろしいまでに炯々として、元貞の脳髄の中にまで斬り込んで来る。むしろ本当に太刀で脳天を唐竹割りにされた方がまし、そうとすら思える眼だ。

「……分かりました。おかしなことをお訊ねして申しわけございません」

 半ば屈したように、元貞は「落蹲」をとりなしながら頭を下げる。

 「落蹲」はそこでようやく眼の色を元に戻し、

「確かに渡したぞ。約束通りにされよ」

 再び鍵と証文を手ずから渡して確認するように言った。

「送りましょうか」

「見送り無用に願いたい。いたずらに人に見られたくないのでな」

「………」

「いずれにせよ、もう会うことはない」

 「落蹲」はそう言って寂しそうに高子の方を見ていたが、ややあって、

「だが聟殿が娘を捨てたならば、その時は何とあっても会うつもりでおる。そういうことがなければ、あくまで影から支えるに徹しよう」

 再び眸の色を変えて低い声で言う。

「………!」

 先ほどの殺意に重ねがけするような殺気に、元貞は再びすくみ上がった。

「では、さらば」

 そんなことは知らぬとばかりに「落蹲」はその場を立ち去り、裏口から出て行く。

「あなた……」

 裏口の戸が閉まる音と高子の泪混じりの声に、元貞はようやく立ち直り大きく息を吸った。

 だがそこまでしてもなお、その心には落ち着かぬものが残っている。

 「落蹲」はあくまで岳父として接する体であったが、その中には明らかに自分に対する殺意すら交えた脅迫が見え隠れしていた。それも口先ばかりではない、本物のそれである。

(もし俺が高子を捨てたなら、かいの及ぶ限り追いつめて殺すつもりだろうな)

 しかし何より恐ろしいのが、姿を見せずにどうやって自分の行いを知るのかということだ。どう考えても、普段からつきまとい監視するしかあるまい。

 「影から支える」といかにも耳ざわりのいいことも言っているが、それとてこの場合は害をなさぬというだけでこっそりつきまとうつもりとも取れた。

 あそこまで「落蹲」がなりふり構わず自分と娘たる高子の仲の円満にこだわるのは、娘への狂気ともいうべき烈しい妄執がなせるものだろう。

 元貞はまださめざめと泣いている高子に眼を向けた。

 先ほどまでは親子の永遠の別れが来たことを悲しんでいたのかと思ったが、今はもしかすると自分の父親の狂気に満ちた愛情が情けなく苦しいのではないかと思えて来る。

 だが、元貞にその如何を訊く勇気はとてもではないが持てなかった。

(……あれじゃどうあっても逃げられん。平穏無事な生活を送りたいだけなのに)

 これからの生活を思い、元貞は頭を抱える。

 何が悲しくていとし女房と暮らすのに、狂った舅の影におびえて監禁されているような気分にならねばならぬというのか。しかも自分で選んだ人生を過ごしているだけなのだから、余計に理不尽であった。

「……これも運命さだめというやつか」

 元貞はそうまた分かったようなことをごまかしにつぶやくと、力なく笑った。

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