この男の名を、在原ありわらの元貞もとさだという。

 在原氏といえばかの有名な在原業平の氏族であるが、その名声はどちらかといえば歌人としてのものだ。氏族としては極めて弱い家であり、数代のうちに衰退して事実上離散してしまっている。

 元貞の家はその庶流も庶流、もはや「貴族」といえるのは名と顔ばかりだった。位階すらもらえずにこん衛府えふで何百人もの舎人たちに混じって雑用をし、小さな家で赤貧洗うがごとき暮らしをしているありさまである。

 元貞にとっては、これはたまらぬことであった。先祖である業平が余りに有名すぎる上、よりによって官職がこんえのごんの中将ちゅうじょうで勤め先の中堅まで上りつめていたものだから、「在原」の名が重すぎて仕方ない。

 近所では既に伝説と化した業平のことを引き合いに出し、

「あれが業平様のすえとは……」

 時に冷たく、時に嫌らしいひとみを向けながらひそひそやられるほどだった。

 そんな時、にわかに京中ではやった疫病えやみに父母がたおれた。

 これがきっかけで、右近衛府から出仕を止められてしまったのだからたまらぬ。表向きはやれびとを出して穢れがどうの、疫病が広まるのともっともらしい理由をつけていたが、実際には人減らしのためこのままなし崩しに首にするつもりなのは目に見えていた。

 一日中家で失意の中に暮らす元貞に対して近所の人々の眸の色は好奇を帯び、どんどんと無遠慮に視線を突き刺して来るようになって行く。

 京だというのにひどく下世話なこの一坊にすっかり嫌気が差した元貞は、先祖の業平が主人公だと噂されている『伊勢物語』なぞ思い返して、

(俺も『ようなき者』、東国にでも下ってみるかね)

 半ばやけくそに身辺のものを担ぎ、ふらりと旅に出ることにした。

 そして三条大橋を渡り、東海道へ足を踏み入れしばらく歩いた時である。

 坂の下に、京の外には余りに不釣り合いな大きな屋敷が見えた。門前を通り過ぎると、

「おひいさま、牛車のご用意が出来ました」

 そう声が聞こえ、しばらくして明らかに女を乗せた牛車が出て来る。

 ふと興味を持ち訊き回ってみると、親を亡くした長者の娘とのことだった。

 どうせ急ぐ旅でもなしと、女の帰宅後に冷やかしで垣間見をしてみて驚いた。

(この女、どこの女房だ!?)

 元貞とてまがりなりにも京の者、祇園祭で本物の女房くらい見たことはある。それですらも路上で見惚れたのに、それ以上の美貌を眼にしたのだからたまらぬ。

 垣間見もろくにしたことがなく女に対する耐性のなかった元貞は、一目惚れをしてしまったのである。

 しかしだからといって、現代のごとく一対一で告白とは行かないのがこの時代だ。「妻問婚つまどいこん」という男が女の家へ通う婚姻形態の上、会うまでにいろいろと儀礼も多く手間がかかる。

 ともかく急いで宿を取り、和歌をひねって送ればこれが返事がいい。あっさりと家に入れてもらえて結ばれ、後朝きぬぎぬふみももらえれば三日通って日夜餠かのよのもちも食えて、あっという間に夫婦めおとになれてしまった。

 余りのすんなりぶりに「在原」の名前が効いたかと邪推したが、

「そういうことにはこだわりませぬ。何やら互いに気が合う気がいたしまして」

 女――たかはそう言ってころころ笑う。

 何やら躱されたような雰囲気を感じたが、美人にそう言われて元貞も照れることしきり、それ以上のことは何も追及しなかった。

 それはともかく……。

 高子と夫婦になって以来、元貞の生活は大きく変わった。

 本来は別居で良人おっとが高子の許に通うのがこの時代の習慣だが、二人は同居となった。元貞から実家のありさまを聞いた高子がそのひどさに驚き、親もいないから気にする必要はないとそう持ち込んだのである。

 それにしてもこの家は、女一人で住んでいた割には非常に豊かだ。

 親が長者とは聞いていたが、侍女だけでも七人から八人、下人やはしためがそれ以上いるというのはちょっとした下級貴族の家と言っても通じる。

 しかも身ぎれいで、何よりみな仕事が出来るし礼儀正しいのだ。かつて住んでいた家の周辺にいた貴族の下人も婢も垢じみていて、どうかするとさぼっていたり無愛想だったりしたので驚くしかない。

 さらに高子は元貞の服が余りにくたぶれているのを見て新しい装束を仕立てたのを皮切りに、とにかく衣食住に渡って不自由させまいとした。自宅にもなく生まれてから乗ったこともなかった牛車をあてがわれた時には、眼が点になったものである。

 飛び入りで聟になったような自分にここまでしてくれるとなると、元貞の背筋も伸びた。豊かな暮らしを逃したくないという以上に、高子を幸せにしてやりたいと思う。

 だが一つ気になったのが、高子が異様なまでに人の視線を気にすることだった。

 何せすぐ一里(当時は約七百メートル)のところまで行くのに、やいのやいのと牛車を引っ張り出すのである。こんなもの、市女笠をかぶってちょいと行けばいいはずだ。

 聞けば家人以外から好奇の眼差しを向けられるのが嫌なのだそうだが、

「私に向けられた眸が、私のことを気味の悪い女と噂しているようで居心地が悪いのです」

 本人はこうしてどうにも奇妙なことを言う。

 むしろ見せびらかしてやれというほどに美しい顔と躰だのに、どこをどう見れば気味が悪いというのだ。自分を醜女しこめと思い込んでいる、現代でいう醜形恐怖症かとも思ったがそんなこともないので、これだけが全くもって謎である。

 しかしそれ以外は特に何ともなく夫婦円満、豊かな暮らしが続いたのだからどうでもよくなった。

(暇見て寺社詣でしといてよかった、ご加護だな)

 そのように調子のよいことを考えながら、日々を過ごしていたのである。

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